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箱根駅伝に大学5年目で初出場した森井勇磨が、10年後のボストンマラソンでパリ五輪代表の大迫を破る金星

寺田辰朗陸上競技ライター
ボストンマラソンのスタート直後の森井勇磨の飛び出しは鮮烈だった(写真:USA TODAY Sports/ロイター/アフロ)

 ボストンマラソン(4月15日)の森井勇磨(京都陸協)は内外に衝撃を与えた。

 最初の1kmを2分34秒でぶっ飛ばし、世界の強豪をリードした。一度は後退したものの終盤で盛り返して8位(2時間09分59秒)に入賞したことは、世界のマラソン関係者を間違いなく驚かせた。

 国内のマラソンファンたちのSNSは、無名だった森井がパリ五輪代表の大迫傑(Nike。13位・2時間11分44秒)に勝った話題で盛り上がった。

 森井は京都・山城高から山梨学院大に進み、1年留年した5年目に箱根駅伝に初めて出場した。卒業後は実業団2チームで走り続けたが、目立った戦績は残せなかった。22年からは市民ランナーとして頑張り続けてきた選手である。

 森井と大迫は、2014年の箱根駅伝90回大会に出場していた。それから10年。ワールドマラソンメジャーズ(東京、ボストン、ロンドン、ベルリン、シカゴ、ニューヨークシティ)の1つであるボストンで、森井はなぜ大迫に勝つことができたのだろうか。

ボストンで10位以内を目標とした根拠。2週連続の2時間14分台と原谷のトレーニング

 32km付近だった。森井が15km過ぎから並走していた大迫を徐々に引き離し始めた。

「3つめの心臓破りの丘でした。4つめの丘では完全にリードできました。自分は元々は上りがそこまで得意ではなかったし、大迫選手は走力もあるし、上りに強い印象がありました。上りで引き離せたことにビックリしましたね」

 森井自身が驚いたのはリードしたのが上りだったからで、大迫に勝つことは別で、そのつもりでボストンに臨んでいたという。

 森井の自己記録は2時間14分15秒。今年2月の京都マラソン優勝時のタイムだが、大迫の2時間05分29秒(日本歴代2位。前日本記録)とは9分近い開きがある。大迫は東京五輪6位と世界トップランナーの1人であり、起伏の激しいボストンでも初マラソン時に3位と実績があった。

 そんな強敵に勝てる根拠は何だったのか。

「京都マラソンの1週間後にも2時間14分36秒(大阪マラソン58位)で走りました。疲労がある中で2分55秒~3分05秒ペースは難しいと感じましたが、1本に絞ればそのペースで42.195kmを行ける」

 ボストンは京都マラソンの優勝で、両市が姉妹都市提携をしている関係で派遣された。昨年夏からボストン出場をターゲットにトレーニングを進めてきたが、2カ月の準備は“原谷”で行う練習が中心だった。森井が拠点とする京都市北区、鹿苑寺金閣の北西の地域で、原谷中央公園など起伏に富んだ練習コースが取れる。

「ボストンの3週間前に一日60kmを2回に分けて走り、その翌日に400 m×10本を5km14分10秒台で走りました。原谷の下りで変化走の形でやりましたが、60km走った翌日にそれだけスピードを出せたので、高速レースでも対応できるし、終盤まで脚が持つ自信はありました」

 大迫に勝つ自信というよりも、マラソンを2週連続で2時間14分台で走ったことと、ボストン同様起伏の激しいコースを使った練習で自信を得ていた。

「ボストンの目標は、賞金の出る10位以内に入ることでした。応援してくれる人たちの期待に応えるためにも、そのくらいの成績を出したかった。川内優輝(あいおいニッセイ同和損害保険)さんが18年のボストンで優勝されたとき、すごく寒い気象条件で、思い切った飛び出しをされて自分のレース展開に持ち込みました。だから自分にもチャンスがあると思って、最初から飛び出しました。最初の下りでバーンと行けば、世界トップ選手たちもかき乱すことができる。大迫選手は2時間5分台を出したときも、そこまで速い入りはしていません。10位以内は現実的な目標で、あわよくばアレ(優勝)も考えていました。そのためには大迫選手にも勝たなくてはいけない」

 学年は森井が1つ上だが、森井は山梨学院大で1年留年して5年目に初めて箱根駅伝に出場した。大迫は4年連続で出場したが、最後の箱根駅伝は2人とも14年の90回大会だった。

大学5年目で箱根駅伝初出場ができるまで

 33歳でいきなりトップシーンに躍り出た森井だが、高校では全国大会に出場することすらできず、山梨学院大に進学後も3年時まで学生三大駅伝も、関東&日本両インカレも出場できなかった。厚底シューズが普及した今では学生選手の10000m28分台は珍しくないが(23年には150人以上)、森井は3年時の10月に初めて30分を切った。29分59秒70は11年の学生選手300位以下だ。

 森井が大きく成長したのは4年時だった。10月に10000mで29分07秒93と自己記録を大きく更新すると、11月の全日本大学駅伝に初出場。最長区間の8区(19.7km)を区間8位で走った。当時の山梨学院大では2学年下の井上大仁(現三菱重工。18年アジア大会マラソン金メダル。自己記録2時間06分47秒)がエースだったが、森井は20kmの距離ならチーム2番手の存在だった。

「4年の6月に10000mで31分かかってしまったレースがあって、当時コーチだった飯島理彰前監督(現スカウト担当)から『この記録なら4年生を使うより1、2年生を起用した方がチームの将来のためになる』と言われてカチンときたことがきっかけです。練習の1つ1つを丁寧に行うようにしました。自分で行くようにしましたね」

 “自分で行く”とは集団のメニューなら先頭を引っ張ったり、1人で行うジョグなどならペースを少し上げたりすることを指す。少しの違いでも継続することで、大きな違いが出る。1カ月少し後の京都府選手権の10000mで優勝し、記録は30分28秒66と良くなかったが、飯島前監督からも「評価していただきました」という。

「その後の夏合宿も(週に2~3回行う負荷の高い)ポイント練習を外したのは1回だけで、あとはパーフェクトにこなしました。設定タイム以上で走ることもありましたよ」

 前述のように11月の全日本大学駅伝で結果を出し、箱根駅伝でも活躍が期待できた。だが12月に左足中足骨の疲労骨折が判明し、最大目標だった箱根駅伝は4年時も出場を逃してしまう。

「ケガをしたときに留年を決意しました」と森井。その覚悟がさらに森井を変えた。リハビリ・トレーニングで固定バイクを2~3時間漕ぎ続け、7000m(2時間半)を泳ぎ続け、ウォーキングも5~6時間ひたすら続けた。

 回復してからも1回のジョグの時間は60~90分から90~120分に増やし、フリーの日には180分自主的に走った。「周りからは箱根駅伝を目指すのに何でそんなに走るの? と言われたりしましたが、箱根駅伝出場から実業団チーム入り、実業団に入ったらマラソンをやって、行く行くは世界で戦いたいと思い始めていましたから」

 実業団入りは大学5年目の5月、関東インカレ1部ハーフマラソンで10位に入ったことでほぼ決まった。全日本大学駅伝6区(12.3km。区間7位)を経て、14年正月の箱根駅伝に念願かなって出場。2区のエノック・オムワンバが走行中のケガで途中棄権したことで参考記録になってしまったが、10区(23.1km)を区間5位相当のタイム(1時間11分10秒)で走った。

「5年在籍した僕のために、箱根を走れなかった選手が1人いる。でもあきらめずに頑張り続ければ、自分のような弱かった選手でも箱根を走れるということを、後輩たちが感じてくれたらうれしいです」と、当時の取材に森井は答えていた。

 それから10年。森井は卒業後も紆余曲折があったが、初めての海外レースとしてボストン・マラソンを走った。大迫と同じ大会に出るのも10年ぶりだった。

ロス五輪を目指さない可能性もある森井のスタイルとは?

 大迫とはボストンで、レース前日に挨拶し、フィニッシュした後に握手をしただけで多くは話さなかった。8月のパリ五輪を控えている大迫が、ボストンを選んだのは初マラソン(18年4月)の大会だったこともあるが、起伏の激しいパリ五輪のコースに見立ててシミュレーションをするのが狙いだっただろう。練習の一環として出場したと想像できる。

 しかしこれまでの競技実績を考えれば、森井にとっては金星と言っていい。

「大迫選手にここで勝負できるとは思っていなかったので、嬉しかったです。勝てたことも嬉しかったですし、自信にもなりました。今回のボストンには10年前の箱根駅伝を走った選手が、大迫選手と僕の他にも竹内竜真(NDソフト。22位)選手、大津顕杜(トヨタ自動車九州。25位)選手と4人も走っていました。早大の大迫選手が1区(区間5位。1、2年時は1区区間賞)、東農大の竹内選手が9区(区間6位)、東洋大の大津選手が10区区間賞でMVPの金栗賞を受賞しました。大津選手とは4年くらい前から話すようになりましたし、竹内選手とは今回が初めてでしたが、NDソフトの監督が山梨学院大の先輩なのでスムーズに話ができました。同じ箱根駅伝を走った選手がここまでそろったのは不思議な感覚もありましたが、モチベーションも上がりました」

 4人の中でも森井が、大学までの競技成績は飛び抜けて低い。その森井がボストンで好成績を残すことができたのは、大学卒業後も苦労を重ね、昨年以降で市民ランナーとして自分のスタイルを確立できたからだ。

 森井のマラソン出場はボストンが22回目。そのうち8レースは途中棄権している。マラソンの自己記録は、17年にマークした2時間18分55秒を、23年2月の大阪マラソンで2時間15分44秒を出すまで6年間も更新できなかった。

「自分が変わったきっかけは22年10月の舞鶴赤レンガハーフマラソンでした。記録は1時間06分38秒でしたが優勝したことで、周囲の人たちが喜んでくれる、盛り上がってくれることに気づくことができたんです。実業団ではタイムを要求されましたし、自分もマラソンで目指すタイムが出せないとわかったら、あきらめるクセがついていました。それが舞鶴の優勝をきっかけに、自分でも周囲を盛り上げることができると実感できたんです。笑ってゴールしたり、高校生と一緒に走ったり。自分の喜びを外に向けて表現することで、周囲の人たちも喜んでくれる。その経験がなければ翌年の大阪の自己新はなかった」

 感じられるやり甲斐が大きく違ってきた。その経験をするためには結果を出すことが必要で、大学時代よりもさらにレベルの高い練習に取り組んだ。ジョグのリズムを上げ、「ポイント練習はレース」と思って走った。

 それでケガをしてしまったら結果は出ない。森井はそこもしっかりと考えていた。

「日頃のストレッチを1つ1つ、より丁寧に行うようにしました。ジョグもハムストリング(大腿部裏)やお尻の大きな筋肉を使い、腰の入った走りを意識しています。腰が落ちたジョグはワンモーション、余分な動きが走りの中に入ってケガにつながる可能性があります。この1年は走りの技術面にも力を入れてきました。ボストンの翌日、大腿前の筋肉痛がなかったので、やってきたことは間違いではなかったと思います」

 ボストンでのブレイクは、「全てがはまった結果」だった。それを再現していけば、日本代表も狙えるだろう。だが森井は「28年のロサンゼルス五輪を狙うか、決めかねています」と冷静に話す。

「ボストンで大迫選手に勝って、瀬古さん以来のボストンでのサブテンなど、一度に色々なことが達成できました。しかし自分はスピードがあるタイプではありません。自己記録は考えずに出場する大会で勝つことを続けていきたい。今のところ来年の東京世界陸上も目指すつもりはありません。昨シーズン達成した京都府公式四大レース(京都マラソン、福知山マラソン、亀岡ハーフマラソン、舞鶴赤レンガハーフマラソン)制覇や、5月の黒部名水マラソンの連覇と大会新記録といった、身近な大会を目標にやっていきます」

 それが森井が確立した自身のスタイルだからだ。そのスタイルを突きつめていけば、今回のボストンのようにワールドマラソンメジャーズで戦うこともできるし、それを成し遂げれば周りの人々を喜ばせることができる。

 森井はこれからも、周囲の喜びも自分の喜びとして、森井らしく走り続ける。

陸上競技ライター

陸上競技専門のフリーライター。陸上競技マガジン編集部に12年4カ月勤務後に独立。専門誌出身の特徴を生かし、陸上競技の“深い”情報を紹介することをライフワークとする。一見、数字の羅列に見えるデータから、その中に潜む人間ドラマを見つけだすことが多い。地道な資料整理など、泥臭い仕事が自身のバックボーンだと言う。座右の銘は「この一球は絶対無二の一球なり」。同じ取材機会は二度とない、と自身を戒めるが、ユーモアを忘れないことが取材の集中力につながるとも考えている。

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