流行語が終焉を迎える瞬間──「触れるとキケン!」化した「こじらせ女子」
「こじらせ女子」の終焉
「こじらせ女子」――2013、14年に「ユーキャン新語・流行語大賞」にノミネートされたこの言葉をめぐり、ちょっとネット上がざわざわしています。
この「こじらせ女子」という言葉は、ライターの雨宮まみさんが2011年に上梓した『女子をこじらせて』(ポット出版)に端を発したものですが、今年の2月にライターの北条かやさんも『こじらせ女子の日常』(宝島社)という本を出しました。しかし、北条さんはこの言葉を雨宮さんに無断で使用し、さらにTwitterで「私としては、こじらせ女子という言葉は使いたくありませんでした」などと言ったことで炎上。担当編集者が、当初は雨宮さんに持ち込んで断られた企画だということも判明し、「こじらせ女子」をめぐって話はこじれまくっています。
なお、「こじらせ女子」は商標登録されていないので、北条さんが使うことに法的には何の問題もありません。雨宮さんが問うているのは、書き手としての道義的な問題です。細かくは、以下のまとめを読むとわかりやすいでしょう。
もちろんこれは、世の中のほとんどのひとにはどうでもいいネットのなかの嵐でしかありませんが、私が真っ先に思ったのは「これで『こじらせ女子』ブームは終わるな」ということです。
それは過去の流行語の例を見ればわかります。
「新人類」のケース
新語・流行語は、その時代を一言で表すようなインパクトを持ちます。ただ、その寿命は言葉によって異なります。
たとえば2012年の年間大賞となった「ワイルドだろぉ」は、お笑い芸人・スギちゃんのネタでした。しかし、もはや誰も使っていません。
対して昨年の「爆買い」と「トリプルスリー」は、これから何年かは使われる可能性があります。とくに1983年に誕生した後者は、平均5年弱に一度生まれるプロ野球選手の記録ですから、今後ふたたび流行る可能性もあります(この言葉については、「『トリプルスリー』の神話――新語・流行語が紡ぐ新たな歴史」を参照)。
では、他の言葉はどうなのでしょうか。以下、3つの新語・流行語を見ていきます。
まずひとつ目が「新人類」です。現在はほとんど使われていませんが、80年代にとても流行った言葉でした。その意味は、「新しいタイプの若者」といったもの。要は、中高年がまるで理解・共感できない若者を指して「新人類」と呼んだのです。
この言葉は、30年前の1986年に新語・流行語大賞の流行語部門で金賞となるほどでしたが、このとき受賞者は、当時西武ライオンズで大活躍していた若手選手の清原和博・工藤公康・渡辺久信の3選手でした。現在は、ひとりは逮捕されたばかりで、ひとりは昨年の日本一監督、もうひとりもドラフトのくじ引きがすごい元日本一監督という錚々たる面々です。しかし、もちろんこの3選手が「新人類」という言葉を創ったわけではありません。彼らは、あくまでも「新人類」と呼ばれる当事者として受賞することになったのです。
「新人類」を最初に「新しいタイプの若者」の意味で使ったのは、確認できる範囲では『月刊ACROSS』1983年6月号(パルコ出版)の特集記事「今、新人類(ニュータイプ)たちが時代を先導する」です。この記事を企画・執筆した同誌の元編集者に直接聞いたところ、「新人類」と名づけたのはその本人で、参考としたのはSF作品や『機動戦士ガンダム』に出てくる「ニュータイプ」だったそうです。「新人類」に「ニュータイプ」とルビが打ってあったのもそのためです。そして、この記事で「新人類」の代表的存在として記事の冒頭で取り上げられていたのは、当時14歳の女流棋士として注目されていた林葉直子さんでした。
翌1984年、『ACROSS』誌は浅田彰さんと戸川純さんを代表させて「新人類」を語り直します。この頃から徐々にこの言葉は広がっていきます。それからは、入社してきた理解不能な新卒社員などを「新人類」とするケースが目立ち、当初の定義からは離れていきます。そこでは肯定的にも否定的にも「新人類」は使われました。そして、その行き着く先が西武ライオンズの3選手だったのです。
『ACROSS』は、後にタイトルに「流行観測」と冠したように、社会現象を分析する雑誌でした。後に『下流社会』で大ブレイクを果たすマーケッター・三浦展さんが編集長を務めていたように、マーケティング・リサーチを公開しているような雑誌だったのです。よって、決してメジャーな雑誌ではありません。競合誌は博報堂の『広告』などでしょうか。しかし、そんな雑誌から何年も続く流行語が生まれたのです。
流行語は、使う人や時代によって最初の定義から変化していくことも珍しくありません。というよりも、定義の幅が広がらなければ流行語にはなりません。換言すれば、汎用性および誤読性がある一言だからこそ流行語になるとも言えるでしょう。「新人類」も最後にはなぜか西武ライオンズの選手に結びついたように。
「オタク」のケース
さて、「新人類」が面白いのは、初出が『月刊ACROSS』1983年6月号だったことでもあります。これは中森明夫さんが『漫画ブリッコ』1983年6月号で「おたく」と命名したのとほぼ同時期です。完全に偶然ですが、「新人類」の源流が『ガンダム』のように、言葉の文脈としても近いところにあったわけです。
そもそも「オタク」も流行語になった言葉でした。前述したように初出は1983年でしたが、人口に膾炙したのは1989年のこと。きっかけは、東京と埼玉で起こった連続幼女誘拐殺人事件の容疑者が逮捕されたときでした。いわゆる宮崎勤事件です。中森さんの「おたく」命名も非常にネガティブな意味(蔑称)でしたが、この事件の報道の「オタク」はそれ以上にネガティブなものでした。
ただ、周知のように、「オタク」は現在ほとんど蔑称として使用されていません。90年代中期から後半にかけての『新世紀エヴァンゲリオン』人気、00年代中期の『電車男』ヒット、アキバブーム、初音ミク等々、オタク文化が一般化していくなかで、それは徐々にポジティブな意味に変化していきました。
そこでは、定義にも変化が起きています。長らく「オタク」は、〈A〉なんらかの対象(アニメやゲームなど)を強く愛好し、〈B〉コミュニケーションが苦手なひとのことを意味していました。しかし、現在は〈A〉のみで「オタク」と定義することも珍しくありません。これは90年代中期から活躍し始めた「オタキング」こと岡田斗司夫さんの定義とも類似します。つまり、趣味志向性だけが抽出され、人格面が対象とならなくなったのです(※)。
このように「おたく」から出発し、現在は「ヲタク」という用法もあるなど、「オタク」は流行語として拡大し、ほぼ定着したのです。
「草食男子」のケース
ここ10年ほどで流行語から出発して定着した言葉には、「草食(系)男子」もあります。その端緒は、コラムニストの深澤真紀さんが2006年に連載「U35男子マーケティング図鑑」でした。翌2007年、深澤さんはこの連載をまとめた『平成男子図鑑』(日経BP社)を上梓し、それによって「草食(系)男子」はさらに拡大していきます。
その途中には、さまざまな論者によって「草食(系)男子」の意味も変容していきました。深澤さんがこの過程において賢明だったのは、当初の意味からどんどん離れていくことに対して、表だって強い不満を表明しなかったことです。もちろん、「草食(系)男子」を再解釈した本のなかには粗悪なものも多かったも確かです。ただ、それもあって最終的にはマンガやライトノベルでも「草食系」を冠したものがたくさん生まれたのです。
ここまで広がれば、深澤真紀さんの功績を忘れるひとはいません。それは「オタク」の命名者が中森明夫さんだったことを忘れるひとがいないように。そして、社会でも「草食(系)男子」の存在は注目を浴びます。
流行語が一時期のものでなく新語として社会に定着するためには、作者が強く権利を主張しないことが、おそらく必須です。その逆に、作者が流行語にしたくないのであれば、権利を強く主張したほうがいいでしょう。
ただ「こじらせ女子」のケースにおいて、作者がどれほどそれについて自覚的かどうかはわかりませんが。なお、多くのひとに知られたり、言及されたりすることを拒むのであれば、一般流通するかたちで本を出版しないことが必須です。
「こじらせ女子(触れるとキケン!)」化
さて、以上のような例を踏まれると、「こじらせ女子」およびそのブームはおそらく衰退します。なぜなら、その言葉を使っただけで作者やその界隈から強い批判が飛んでくるわけですから、面倒くさくて誰も使いません。それは、「こじらせ女子(触れるとキケン!)」と表記しているようなものです。
ただし、ひとつだけ付記しておくと、流行語を書籍や論文等で使う主体がライターや研究者など個人の場合は、やはり先行研究としてその端緒の本に言及することは必要とされるでしょう。それは作者のひとへのリスペクトというよりも、読者にしっかりと文脈を見せるためです。これは、書き手としての信用に関わってくる問題でもあります。
もちろん、いまオタクについて『オタクになるためのマル秘テクニック99☆』みたいな軽いノリの本を出そうとするときに、「『オタク』という言葉は、1983年にコラムニストの中森明夫が『おたく』として命名したことに端を発する云々」と書く必要はおそらくありません。それは「オタク」という言葉が、とても広く深く定着しているからです。ですから、本のタイプや書き手の立場に依存するとしか言えません。つまりケースバイケースです。
なんにせよ、「こじらせ女子」という言葉は新語としては定着せず、出版業界の片隅のカルトな言葉として流通しながらも、徐々に終息するサイクルに入ってしまったのだなぁと感じます。正直、これはとても残念な展開です。なぜなら、3年前のこと、私は女子ブーム全般について以下のように書いたことがあるからです。
これは、女性たちの傷の舐め合い状態と化していた「こじらせ女子」ブームに対しての、批判でもありエールでした。個人的には、「こじらせ女子」を作者以外が再帰的に読み直すことでフェミニズム的展開に繋げる道もあったと考えていただけに非常に残念です。やはりこの言葉は、酒井順子さんの『負け犬の遠吠え』(2003年)の「負け犬」の劣化ベタ版でしかなかったという印象です。さらに言えば、個人の問題を社会の問題に接続できないまま無自覚に縄張り争いしている現在の状況は、不毛以外のなにものでもありません。
もちろん、ネタだった「負け犬」がベタ化して「こじらせ女子」となったように、時間が経てば似た意味が違う呼び名で復活する可能性もあります。「負け犬」から「こじらせ女子」には8年ほどのスパンがありますので、「こじらせ女子」誕生の8年後である2019年くらいにまたなにか出てくることに期待したいところです。
※……このへんの詳しい分析は、拙文「〈オタク問題〉の四半世紀――〈オタク〉はどのように〈問題視〉されてきたのか」(羽渕一代編『どこか〈問題化〉される若者たち』2008年・恒星社厚生閣・所収)を参照のこと。
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