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【「鬼滅の刃」を読む】江戸時代における遊郭以外の私娼街などの仕組みとは

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
温泉街にも遊女は存在した。(提供:イメージマート)

 「鬼滅の刃」遊郭編は、かなり豪勢な遊郭の情景を描いている。「遊郭編」の予備知識として、遊郭以外の私娼街を紹介することにしよう。

■岡場所

 岡場所とは、江戸時代の私娼街のことである。公認の吉原に対して、岡場所と呼んだ。江戸幕府は公娼遊廓制だったので、私娼は違法である。

 しかし、幕府の対策が不十分だったことから、18世紀の半ば頃から各地に岡場所があらわれ、約70ヵ所もあったという。

 吉原に比べて安かったので、深川、根津などは吉原と並ぶ歓楽街になった。

■湯女

 湯女は一種の娼婦で、風呂屋に雇われていた。江戸時代前期には、江戸、京都、大坂、地方の温泉場などで隆盛を極めたという。

 温泉場では、有馬(神戸市北区)、山中(石川県加賀市)の湯女が有名だった。大湯女は客席を担当し、小湯女は客の体を風呂場で洗った。その後、飲食をして夜を共にした。

■飯盛女

 飯盛女(飯盛、飯売女)とは、街道の宿場で旅行者の給仕、雑用をしつつ、売春も行っていた。

 もともとは遊女だったが、江戸時代中頃から江戸幕府が厳しく遊女を取締ったため、飯盛と名を変えたという。

 享保3年(1718)、幕府は飯盛女を江戸10里四方の宿屋1軒につき2名に定め、その他の宿もこれに準じる扱いに規制した。

 一方では純粋な遊郭ではないが、さまざまなシステムが誕生した。

■出合茶屋・盆屋

 出合茶屋は男女が密会に利用する茶屋のことで、待合茶屋ともいった。貸席のことである。平たく言えば、現代のラブホテルに相当する。

 取締りなどに備え、出入口を2ヵ所以上にしたり、客席を2階にするなどの工夫をしていた。

 京都や大坂では、盆屋と称した。江戸では酒肴を提供したが、盆屋は提供しなかったので低料金だった。江戸では八丁堀代地や上野の不忍池畔にあった待合茶屋が有名だ。

■陰間茶屋

 最後に、陰間茶屋(子供茶屋)を取り上げておこう。陰間茶屋とは、陰間(男娼)を呼んで遊ぶ宿のことで、宴席に侍らせて男色を行った。陰間を抱える家を子供屋といった。

 陰間の年齢は10~17歳で、小姓風の衣装を着ていた。のちに大振袖を着て、島田髷に髪を結い、女性的な言葉や動作をするようになった。

 江戸の陰間茶屋は芳町、木挽町(以上、東京都中央区)、湯島(同文京区)、芝神明(同港区)などに多く、湯島、芝神明の陰間茶屋は、寛永寺、増上寺の僧侶を客にしたという。

■まとめ

 遊郭を利用できない貧しい客は、さらに安いところを求めて遊んだ。そのほか、類似した施設やシステムがあったというのも誠に興味深い。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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