Yahoo!ニュース

「京都の伝統工芸をなめるなよと罵倒された日もあった」人気ブランド「京都デニム」が歩んだ平坦ではない道

吉村智樹京都ライター/放送作家
デニムの色を抜き、そこに新たな色を挿し染めする「京都デニム」(筆者撮影)

■「京都の伝統工芸をジーパンなんかに使うな!」

「起業した当時は、『京都の伝統工芸をジーパンなんかに使うな!』と苦情の電話が何本もかかってきました。今でこそ、『京都の伝統に革命を起こした店』だと評価していただけるようになりましたが、始めから順調だったわけではないんです」

人気ブランド『京都デニム』の代表取締役社長であり、染色職人である桑山豊章(くわやまとよあき)さん(44)は、そう語ります。

『京都デニム』社長であり、染色職人である桑山豊章さん(筆者撮影)
『京都デニム』社長であり、染色職人である桑山豊章さん(筆者撮影)

『京都デニム』とは、「手描(てがき)京友禅」(筆で絵を描くように染めた着物)の技術を活かし、スタイリッシュな商品を製造販売するデニムのブランド。ショップはJR・近鉄・京都市営地下鉄「京都」駅から北へ5分、京都タワーを望む位置にあります。

すでに染まっているデニムの色を抜いて絵柄を表現する(提供:京都デニム)
すでに染まっているデニムの色を抜いて絵柄を表現する(提供:京都デニム)

店舗はデニムの暖簾が目印(提供:京都デニム)
店舗はデニムの暖簾が目印(提供:京都デニム)

■3年もの試行錯誤の末に誕生した「京都デニム」

メイン商品は、デニム生地を和柄に染めた、とても京都らしい一点もののトートバッグ(8,800円~)。

愛らしい和柄のトートバッグ(筆者撮影)
愛らしい和柄のトートバッグ(筆者撮影)

もともとはジーンズが主力商品でしたが、「新型コロナウイルス禍の影響でソーシャルディスタンスを守りながらの見立てが難しくなり」、2020年からバッグ専門店へと業態を変化させました。

かつての主力商品はジーンズだったがコロナ禍で接近しながらの見立てが難しくなり2020年よりバッグがメインになった(提供:京都デニム)
かつての主力商品はジーンズだったがコロナ禍で接近しながらの見立てが難しくなり2020年よりバッグがメインになった(提供:京都デニム)

使用するデニム生地は倉敷の児島で特別にあつらえたオリジナル。京都デニムは、「すでにしっかりブルーに染まっている生地の色をわざわざ抜き、その上から再び別の色を染める」という、気が遠くなるほど手が込んだ方法でつくられているのです。

商品は一点一点、桑山さんが染める(筆者撮影)
商品は一点一点、桑山さんが染める(筆者撮影)

色を抜いたデニムに筆で新たな色を挿す。「手描(てがき)京友禅」の技法が用いられている(筆者撮影)
色を抜いたデニムに筆で新たな色を挿す。「手描(てがき)京友禅」の技法が用いられている(筆者撮影)

そんな前代未聞の商品は、やはりすぐには誕生しませんでした。2004年から試作を開始し、店舗のオープンは2007年。京都デニムの完成までには、3年間もの試行錯誤の時間を要したのです。

桑山「何十人という京友禅の職人さんに、『共同で開発しませんか』と声をかけましたが、ほとんどの人に断られました。ただ、そのうち3人のベテラン職人さんが、『京友禅の技術でデニムを手染めするとは、若いもんの考えていることはおもろいな』と挑んでくださった。その人たちが3年間、一緒に走ってくれなかったら、京都デニムは生まれていなかったですね」

京友禅のベテランたちが馴れぬデニムに挑んでくれた(提供:京都デニム)
京友禅のベテランたちが馴れぬデニムに挑んでくれた(提供:京都デニム)

歴史に革新をもたらすのは、若者だけではありません。前例がないチャレンジに関心を寄せたのは、むしろ熟練のシルバーエイジでした。馴れぬデニム地に果敢に立ち向かった3人の匠は、見事にノウハウを開拓。のちに高齢による引退をしたり、天寿をまっとうしたりして現場を離れましたが、技法を桑山さんに遺しました。2010年以降は、技術をアップデートさせながら桑山さんが一人で染色しています。

「京友禅の匠たちの協力がなかったらデニムを染める技法は生まれなかった」と語る桑山さん(筆者撮影)
「京友禅の匠たちの協力がなかったらデニムを染める技法は生まれなかった」と語る桑山さん(筆者撮影)

■緊張で胃が痛い「ジーンズの持ち込み」

京都デニムの名を一躍巷(ちまた)に知らしめた和柄のジーンズは、現在は「持ち込み」というかたちで継続しています。依頼主が自前のジーンズを持参し、依頼主から指定された場所の色を抜き、そこに柄を手染めしてゆくシステムです。

桑山「めちゃめちゃ難しいです。お客様の想い入れが強いジーンズですから、失敗は許されません。とはいえ、持ち込まれるジーンズの生地に、どういう染料が使われているかがわからない。そのわからない色を抜くのですから、怖いです。『色がぜんぜん抜けへんやん……』と頭を抱える場合もあります。胃がキリキリ痛んでたいへんです」

桑山さんは今日も職人としての技量と知識を試され続けています。

持ち込まれたジーンズを和柄に染める。「元の染料が判明しない場合、色を抜くのがとても難しい」と語る(筆者撮影)
持ち込まれたジーンズを和柄に染める。「元の染料が判明しない場合、色を抜くのがとても難しい」と語る(筆者撮影)

■くまのぬいぐるみは「もったいない」から生まれた

京都デニムのもう一つの目玉商品が、はぎれを縫い合わせた、くまのぬいぐるみ「でにぐま」

デニムのはぎれを縫い合わせた「でにぐま」も人気商品(提供:京都デニム)
デニムのはぎれを縫い合わせた「でにぐま」も人気商品(提供:京都デニム)

桑山「でにぐまは、京都の伝統工芸界に根づく“始末”(使い切る)という考え方から生まれたものです。せっかく職人さんがつくってくれたデニム、はぎれといえども捨てるなんて、僕にはできない。何かに利用したかった。SDGsという言葉を知らない頃から、自然に生まれたぬいぐるみなんです」

京都工芸界の異端児、桑山さん。しかし情熱の原点には、手仕事へのリスペクトと、素材への愛着があったのです。その想いは、愛らしいくまのぬいぐるみに詰まっていました。

■「父がどんな仕事をしているのか知らなかった」

桑山さんは京都生まれ、京都育ち。祖父は四条烏丸に反物の製造卸「桑山商店」を起ち上げ、父は「悉皆(しっかい)業」と呼ばれる、着物のメンテナンスを請け負う会社を営んでいました。職種は微妙に違えども、桑山家は三代にわたって京友禅と馴染みが深い商いをしているのです。

しかし、桑山さんは意外にも、「父がどういう職業に就いているのか、まるで知らなかった」と言います。

桑山「父は職人さんに作業を振り分ける立場にいたので、工房や店舗を抱えていたわけではないんです。家には和服に関する資料をまったく置いていなかった。だから僕は父をなんとなく、『普通のサラリーマン』だと認識していました」

三代にわたって京友禅に関わる仕事をしているが、「19歳になるまで父の職業を知らなかった」のだそうだ(筆者撮影)
三代にわたって京友禅に関わる仕事をしているが、「19歳になるまで父の職業を知らなかった」のだそうだ(筆者撮影)

桑山さんは高校を卒業後、大阪芸術大学工芸学科のテキスタイル・染織コースに進学します。これもまた、「家業の影響はみじんも受けていない」のだそうです。

桑山「布っておもろいな、デザイナーってカッコええな、その程度の軽い感覚で受験しました。『京都の伝統工芸を守らなければ!』みたいな高い意識は、少しもなかったんです

家業が着物を扱う仕事だとは知らないまま、染織を学ぼうとした桑山さん。生まれながらにして京都の工芸にたずさわるさだめを与えられていたのではないか、そう感じずにはいられません。

■大学中退と「巨額の借金」

大学で染色を学ぶ桑山さんに、人生の岐路に立たされる重大な出来事が起きました。それは、父親の突然の入院。心臓肥大による心筋梗塞で、透析を必要とする重症でした。桑山さん19歳、大学二年生の夏のことです。

桑山「父がベッドで横たわる隣で、親族から、『あなたを大学へ通わせる学費はもう払えない。退学して家業を継いでほしい』と泣いて懇願されました。そこまで言われたら、断れないですよ……。あの日はとても暑かった。今でもその日の光景を思い出します」

社会人経験がない十代の若者に、いきなり託された会社の運営。初めて父親の職業を知った桑山さんは、もちろん京都の職人たちと面識すらありません。戸惑う桑山さんに、さらに青天の霹靂といえる事態が襲い掛かります。それは、「会社に約3億円の借金がある」という事実。

桑山「父が病に倒れてからしばらくして、家に銀行員が入れ代わり立ち代わりやってくるようになりました。てっきり、銀行がお金を貸してくれるのだと思っていたのですが、逆だった。彼らは『お金を返してほしい』と言うんです

銀行員の説明により、病に倒れた父は、故人である祖父がつくった借金を肩代わりしていたと判明。利息が膨らみ、その金額はおよそ3億円にものぼりました。そのうちざっと1億円ほどを親族も支払わなければならない、そういった状況だったのだそう。

桑山「父は家族に迷惑をかけないように、一人でこつこつ返済していたのですが、長期にわたる入院で返す目途がたたなくなった。法律に詳しければ僕が返済から免れる方法があったのでしょうが、当時は『一族一丸となって借金を減らす』という機運が高まっており、自分も大学を中退して頑張るしかないと考えたんです」

「家族が一丸となって病気の父を助け、借金を返そう」と誓った(筆者撮影)
「家族が一丸となって病気の父を助け、借金を返そう」と誓った(筆者撮影)

■名刺を燃やされ、段ボール箱をぶつけられる

そうして桑山さんは、手さぐりで父の悉皆業を引き継ぎます。さらに借金をできるだけ短期間で返済すべく、祖父が遺した桑山商店を改装し、着物の小売りと卸も始めたのです。

桑山「19歳からずっと、早朝から深夜まで、がむしゃらに働きました。食事は一日一回。食費を切り詰めて返済に充てていたときもありましたね。20代で結婚しましたが、妻からも、『あの頃のあんたは、寝言は仕事のことばかり。夜中に突然むくっと起き上がり、そのまま血を吐いた日もあったな』と言われます。なぜそこまで働かなければならないのか、考える余裕すらない精神状態でした」

経験がない営業で、京都の大人社会の洗礼を浴びる日もありました。桑山さんは、「あくまで25年も前の話。現在はそんな業界ではない」と断りつつ、当時をこう振り返ります。

桑山「二十歳前後の、口のきき方を知らない若造です。僕の態度がしゃくに障ったのでしょう。業者さんから水をかけられたり、塩をまかれたり、そんなことはしょっちゅうです。吸っていた煙草の火を名刺に押しつけて燃やされたときもありました

そのようなキツい目に遭いながらも、借金を返すという目的があるためか、「意外と平気だった」という桑山さん。とはいえ、一度だけ、悔し涙を流した例があったと言います。

桑山「夏だったので、下駄履きで営業に行ったんです。すると、その会社の専務さんから、『うちの敷居を裸足でまたぐな!』と怒鳴られましてね。そこから2時間もこんこんと説教されました。さらに従業員が僕に向けて一斉にダンボール箱を投げつけてきてね。常識はずれだった僕が悪いのですが、『なにもそこまでしなくてもいいじゃないか』と悔しくて泣きました」

「あの日は悔しくて泣きました」。思わず拳にも力が入る(筆者撮影)
「あの日は悔しくて泣きました」。思わず拳にも力が入る(筆者撮影)

■「このままでは職人さんの素晴らしい技術が途絶えてしまう」

そうしてやっと借金返済のゴールが見えてきた頃、桑山さんはふと立ち止まって考えるようになりました。

桑山「仕事を通じて、京友禅の素晴らしい技術を持つ職人さんたちに出会ってきました。しかし、僕と同世代の二十代は普段は着物を着ていない。そもそも僕自身が着ていません。自分が着ないのに、他人に着せようとするなんておこがましい。とはいえ、このままでは京都の伝統が途絶えてしまう。だったらいっそ、着物の普及に励むよりも、時代にあったキャンバスで伝統工芸を残すべきではないかと考えたんです」

そこでひらめいたのが、手描京友禅のスキルをデニム生地に応用した「京都デニム」。ジーンズだったら、伝統工芸を現代に継いでいけるのではないか、桑山さんはそう考えたのです。

桑山「京都デニムなら幅広い世代に喜んでもらえるし、職人さんの仕事も新たに創出できる。京都の工芸にとって、きっといいことに違いない。そう考えたんです。新しいビジネス? いいえ、むしろビジネスから離れたかった。当時の僕にとって、着物は借金を返すためのツールでした。『この一着を動かせば、いくらになる』と、考えるのはお金のことばかり。毎日がカネ、カネ、カネ。お金ではなく、とにかくもっと人のためになる仕事がしたかったんです」

着物に使っていたワザをデニムに。京都の和服業界を根底から覆しかねない発想です。反発は予想できました。しかしある日、覚悟を決める出来事が起きたのです。

桑山「背中を押されたのは、父の死でした。僕が26歳のとき、父がふと、『お前の好きなようにやったらええ』と言ったんです。それが遺言となりました。その日が、まさか臨終の立ち会いになるなんて……。なんだか偶然じゃない気がしてね。父の『好きなようにやったらええ』という言葉に、しっかり向き合わなければならない、そう誓ったんです」

葬儀を済ませた桑山さんはその後、意欲を見せてくれた京友禅職人の元を幾度も訪ね、20代の残りの時間の多くを「京都デニム」の開発に費やします。

父親が遺した「お前の好きなようにやったらええ」という言葉に背中を押されたという(筆者撮影)
父親が遺した「お前の好きなようにやったらええ」という言葉に背中を押されたという(筆者撮影)

■「売れない」うえに抗議される苦難の日々

そうして桑山さんは2008年、31歳で遂に、京都駅のそばに念願のジーンズ専門店『京都デニム −KYOTO DENIM-』をオープンさせました。

京都の伝統工芸がスタイリッシュな店内に映えた(提供:京都デニム)
京都の伝統工芸がスタイリッシュな店内に映えた(提供:京都デニム)

しかしながら、なかなか軌道に乗りません。

桑山「観光客でにぎわう週末ですら、知名度がなく、ぜんぜん売れない。『アルバイトをしないとあかんな』と本気で考えていました

頭が痛い理由は、「売れない」だけではありません。着物のメーカーや卸問屋などから、クレームの電話が相次いだのです。

桑山『京都の伝統工芸をジーパンなんかに使うな。なめるな』『店をたため』と言ってくるんです。手描京友禅の着物は何十万円もする。方や、ジーンズは高くても10万円はしない。伝統の技術を安い衣料品に使われると、価格破壊が起きて困るというわけです」

伝統工芸を現代に伝えるために始めた京都デニム。されど、その型破りな発想は既得権益を揺るがしかねず、他社の逆鱗に触れたのです。

桑山「その都度、『すみません、すみません』ってぺこぺこ頭を下げながら、その場をやりすごしました。当時の僕は、業界ではアウトローだと見なされていましたね」

京友禅の技法をジーンズに反映させる行為は、そう簡単には理解が得られなかった(提供:京都デニム)
京友禅の技法をジーンズに反映させる行為は、そう簡単には理解が得られなかった(提供:京都デニム)

■情報番組で紹介され状況が一変。てのひらを返す大人たち

売れないうえに同業者から反感を買う、八方塞がりの日々。それでもこつこつと展示会に出品を続けるうちに、形勢が一気に逆転する異変が起きました。それは――。

桑山「テレビの情報番組『おはよう朝日です』(ABC)が秋に京都デニムをとりあげてくださってね。放送後の反響が尋常じゃなかった。問い合わせが殺到し、ジーンズが売れる、売れる。その頃、実は妻からも、『ラストチャンスやで。今年いっぱいでだめだったら、店を閉めてや』と告げられていたんです。ですから、『ぎりぎりセーフ! やめんでよかった~』と胸をなでおろしました」

「おは朝」の愛称で親しまれ、関西で絶大な人気を誇る朝のローカル情報番組『おはよう朝日です』。「この番組で商品が紹介されると売れる」という定評の通り、京都デニムはあっという間に上昇気流に乗りました。

一変したのは、売り上げだけではありません。和服業界からも一目置かれるようになったのです。

桑山「抗議してきた会社の態度が、『おは朝にとりあげられるなんてキミ、すごいやん』『うちに遊びにおいで』と180度、変わったんです。『オトナたちって怖えぇ~!』と震えあがりましたね」

テレビ放映をきっかけに苦境を脱した。180度態度を翻す人たちも少なくなかったという(筆者撮影)
テレビ放映をきっかけに苦境を脱した。180度態度を翻す人たちも少なくなかったという(筆者撮影)

■親子二代に愛される京都デニム

そんな京都デニムは現在、京都手描友禅協同組合に所属しています。「手描京友禅の技術を現代に継承している」と認められたのだそうです。

本来、京友禅は絹を染めた着物や反物を指し、デニムを染める職人の組合加入は異例。私は「京都デニムも、立派な“新時代の京友禅”なのだ」と感じました。

桑山「絹でない時点でアウトなのに、組合に認められたのは不思議ですよね。京都はここ10年で工芸に対する考え方が大きく変わったんじゃないかな」

そういって、粛々と新作に色を挿す桑山さん。

桑山「店を始めて14年。今では親子二代で京都デニムの商品を使ってくださるお客さんもいるんです。お母さんが購入したジーンズを、現在は娘さんがはいている。しかも娘さんがうちのInstagramのアンバサダーもやってくれている。長く愛してもらえて、嬉しいですよ。これからも研究を怠らず、精進していきたいです」

かつては伝統を破壊していると批判された京都デニムが、今や新たな伝統を生みだしている。工芸を次世代に橋渡ししてゆくためには、賛否が分かれるほど衝撃的なスクラップアンドビルドが必要なのでしょう。

(筆者撮影)
(筆者撮影)

京都デニム

所在地:京都府京都市下京区小稲荷町79-3

営業時間:9:00~19:00

定休日:年中無休

TEL : 075-352-1053

https://kyoto-denim.com/

京都ライター/放送作家

よしむら・ともき 京都在住。フリーライター&放送作家。近畿一円の取材に奔走する。著書に『VOWやねん』(宝島社)『ビックリ仰天! 食べ歩きの旅 西日本編』(鹿砦社)『吉村智樹の街がいさがし』(オークラ出版)『ジワジワ来る関西』(扶桑社)などがある。朝日放送のテレビ番組『LIFE 夢のカタチ』を構成。

吉村智樹の最近の記事