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手渡し願書で始まった勝浦正樹の騎手人生。最後の騎乗でのエピソード

平松さとしライター、フォトグラファー、リポーター、解説者
4月14日、現役最後の騎乗となったパドックでの勝浦正樹騎手

1度は延期された引退

 4月14日の中山競馬場。ここで現役生活最後の騎乗を終えたのが勝浦正樹騎手だ。

 年頭にヒラボクミニーで新馬戦を勝った際、次のように語っていた。

 「この馬とニシノヤングマンの2頭がいずれも楽しみで、どちらも走らないようなら引退かな?って考えていました。でも、勝ってくれたから『もう少し乗り続けてみては?』と、言われているような気になりました」

 しかし、同馬の次走フラワーC(GⅢ)では他の騎手が乗っていた。これも引退に拍車をかけたのか?と問うと、次のような答えが返って来た。
 「一誠(ヒラボクミニーを管理する村田一誠調教師)も色々考えた末だと思うので、彼には感謝しかありません。早かれ遅かれ引退は考えていたので、乗り替わりは関係ないのですが、しいて言えば、自分の地元といえる中山で引退したいと考えていたので(この乗り替わりで)時期が固まったという感じです」
 そして、続けた。
 「多くの人が引退を残念がってくれるのはありがたいですけど、自分としては残念という気持ちではないんです」

年頭に新馬勝ちしたヒラボクミニーと勝浦正樹騎手。手前が村田一誠調教師
年頭に新馬勝ちしたヒラボクミニーと勝浦正樹騎手。手前が村田一誠調教師

手渡しの願書が人生を変えた

 1978年8月10日、千葉県で生まれた。生家は中山競馬場の近くだったため、父に連れられて何度か競馬場へ行った。徐々に興味を抱くと、雑誌に掲載されていた競馬学校騎手課程の広告が目に入った。
 「郵送していては間に合わないくらい願書の締め切り日が近づいていました。だから母に頼んで白井の競馬学校まで連れて行ってもらい、手渡しで願書を提出しました」
 この行動力が、彼の人生を大きく変える事になった。
 競馬学校の受験に合格すると、97年、久恒久夫厩舎から騎手デビューを果たした。2002年にはテレグノシス(美浦・杉浦宏昭厩舎)と出合い、NHKマイルC(GⅠ)を勝利。自身初GⅠを飾った。更に07年にはゴスホークケンで朝日杯フューチュリティS(GⅠ)を優勝。GⅠ・2勝目を飾り、乗れる中堅騎手としての座を確固たるモノとした。
 個人的な話ではあるが、当時、私は彼とよくライヴや様々なイベントに一緒に出掛けた。「何でも刺激になるので、行ってみたいから、何かあれば誘ってほしい」と、彼から言われていたのだ。公私共に充実していた事が分かる逸話ではないだろうか。

ゴスホークケンでGⅠ2勝目をあげる少し前の勝浦騎手(06年撮影)
ゴスホークケンでGⅠ2勝目をあげる少し前の勝浦騎手(06年撮影)


 しかし、デビューから30年近くが経った近年は、当然といえば当然だが、彼なりに先の事を考えるようになっていた。
 「先出の一誠もそうですが、オーナー等、助けてくれる人は沢山いました。だから乗り続けて来られたけど、自分が彼等の立場だったら果たして乗せるかな?と思いますよね。減量があるわけではないし、ベテランと呼ばれる域に入っちゃっているので、注文もつけづらいだろうし……。だからこそ、乗せ続けてくださった皆さんには感謝しかない反面、引き時も考えるようになりました」

18年ニシノデイジーによる東京スポーツ杯2歳S優勝が最後の重賞勝利となった
18年ニシノデイジーによる東京スポーツ杯2歳S優勝が最後の重賞勝利となった

最後の騎乗でのエピソード

 正式に引退を発表した後の2週間では24頭の騎乗馬が集まり、2勝、2着4回。JRA通算成績を967勝まで伸ばした。
 「『辞めるのを辞めな』と言ってくれる人もいたけど、自分としてはそういう事ではありませんでした。極めようのない仕事なのでやり切ったか?!と言われると、必ずしもそうではないかもしれません。でも、勝てるから続けるという気はなくて、自分なりに後悔はないので、勝ち負けに関係なく、引退はもう決めた事なんです」
 ただ、実際に最後の騎乗を終えた時、自分でも考えていなかった感情が少しだけ湧いたと言う。
 「現役最後のレースは2着だったのですが、勝ったのが懇意にしてもらっていた吉田豊さんでした」
 2人はパドックでの騎乗直前にも言葉をかわしていた。

最後の騎乗のパドックで言葉をかわす勝浦騎手(桃色帽)と吉田豊騎手(黒帽)
最後の騎乗のパドックで言葉をかわす勝浦騎手(桃色帽)と吉田豊騎手(黒帽)

 連続騎乗にもかかわらず、パドックへ駆けつけた勝浦を見つけ、吉田が声をかけたのだ。吉田が述懐する。
 「『最後だから乗りに来ました』って言っていました。『良い競馬になると良いね』っていう気持ちだったのに、僕が勝ってしまって申し訳なく思いました」
 レースを終えた2人は、一緒に下馬所まで上がって来た。後にその写真を見直した際、勝浦は自分でも驚くような感情に襲われた。
 「『あぁ、こういうのはもう無いんだな……』と思うと、初めて少しだけ淋しい気持ちになりました」

レースを終え一緒に上がって来た勝浦騎手(左)と吉田豊騎手
レースを終え一緒に上がって来た勝浦騎手(左)と吉田豊騎手


 更に下馬所に着くと驚かされるカードが次々と切られた。まずは最後の騎乗馬を用意してくれた調教師の西田雄一郎が笑顔で待ってくれていた。
 「西田(雄一郎調教師)さんは、競馬学校時代、2年上の先輩で、当時から何かと面倒を見てくださいました。競馬だけでなく私生活でもよくしてくれた兄貴的な存在でした」

ラストライドを終えた後、2着の枠場で西田雄一郎調教師(左)と
ラストライドを終えた後、2着の枠場で西田雄一郎調教師(左)と

 また、江田照男や浜中俊ら何人かの騎手達も、上がって来た勝浦を出迎えてくれた。

 「最後が2着だったので『自分らしいな……』って思っていたら、迎えに出て来てくれていたノリさんが『正樹らしいな』と言っている声が聞こえました」

 “ノリさん”とは勿論、横山典弘の事だった。勝浦は言う。

 「僕がデビューした時、すぐ隣の厩舎にノリさんが所属していた事もあり、下乗り時代からお世話になった憧れの存在でした。ヨシトミさん(柴田善臣騎手)や武豊さん、そしてノリさんは最後まで眩しい存在で、そのノリさんに最後に心中をズバリ言い当てられて、自分の事を見てくれていたんだと思うと感動しました」

最後の騎乗を終えて上がって来た勝浦騎手を拍手で迎えた横山典弘騎手の姿が後ろに見える
最後の騎乗を終えて上がって来た勝浦騎手を拍手で迎えた横山典弘騎手の姿が後ろに見える


 そのすぐ横では村田一誠が思わぬ態度で立っていた。
 「一誠が号泣していました。彼は親友の中でも特別な親友なので、そんな彼が泣いているのを見たら、もらい泣きしてしまいました」

勝浦の最後の騎乗の直後、笑顔で言葉をかわす吉田豊騎手(左)、村田一誠調教師(中央)と西田雄一郎調教師。号泣していたせいか村田師の目が腫れぼったいのが分かる
勝浦の最後の騎乗の直後、笑顔で言葉をかわす吉田豊騎手(左)、村田一誠調教師(中央)と西田雄一郎調教師。号泣していたせいか村田師の目が腫れぼったいのが分かる


 吉田豊との逸話もまだ終わっていなかった。レース後、報道陣に囲まれた勝浦を少し離れたところからずっと見ていたのが吉田だった。インタビューがひと通り終わると、吉田が私の側へ駆け寄って来て、言った。
 「ケンさんと2ショットを撮ってください」
 “ケンさん”とはごく一部の関係者が勝浦の呼称として用いていた名前だった。
 こうして撮影されたのがこの写真だ。

最後の騎乗を終えた後、吉田豊騎手からせがまれて撮ったツーショット
最後の騎乗を終えた後、吉田豊騎手からせがまれて撮ったツーショット


 勝浦は言う。
 「勝って、皆で記念写真を撮ろうと話していたのが計画倒れになってしまったわけですけど、負けた相手が豊さんで良かったです」
 更に続けた。
 「皆、温かく送り出してくれました。大勢の良い人に巡り会えたので、生まれ変わってもまた騎手になりたいと心から思いました」
 ターフの上で躍動する勝浦の姿をもう見られないのは、ファンや私達応援する人間にとっては残念でならない。しかし、現在45歳の彼にとっての人生は、まだまだ先が長い。「幸せな騎手人生でした」と、次の道を歩む事を決めたのであれば、本人にとってそれが1番だ。勝浦正樹の新たな人生を応援したい。

(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)

ライター、フォトグラファー、リポーター、解説者

競馬専門紙を経て現在はフリー。国内の競馬場やトレセンは勿論、海外の取材も精力的に行ない、98年に日本馬として初めて海外GⅠを制したシーキングザパールを始め、ほとんどの日本馬の海外GⅠ勝利に立ち会う。 武豊、C・ルメール、藤沢和雄ら多くの関係者とも懇意にしており、テレビでのリポートや解説の他、雑誌や新聞はNumber、共同通信、日本経済新聞、月刊優駿、スポーツニッポン、東京スポーツ、週刊競馬ブック等多くに寄稿。 テレビは「平松さとしの海外挑戦こぼれ話」他、著書も「栄光のジョッキー列伝」「凱旋門賞に挑んだ日本の名馬たち」「世界を制した日本の名馬たち」他多数。

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