【戦国時代】だれが裏切ろうともお仕えいたす!主君がどれだけ落ち目になっても忠義を貫いた名将・3選
どれほど周りを出し抜き、強い勢力に早く従うか、そうした身の振り方が生死を分けた戦国時代。仕える主君が落ち目となって滅びそうになれば、他の大名へ乗り換える行動も、ある意味では仕方がありません。
しかし、そのような中にあって、どう考えても斜陽の主君に対し、最後まで忠誠を曲げなかった“武士の鏡”とも言える人物も存在していました。
この記事では、そうした中でも特に際立つ3人の武将をピックアップして、ご紹介したいと思います。
①【長野業正(ながの・なりまさ)】〜鉄のごとき忠誠心〜
彼は上杉家に仕えていた猛将でしたが、“越後の龍”や“軍神”などと呼ばれた“謙信”の方ではありません。
主君は上杉憲正(のりまさ)という大名で、もともと関東地方に一大勢力を保持していましたが、残念ながら多くの歴史作品や評価において、凡将とみなされることが大半の人物です。
かつて大河ドラマ“風林火山”では、同じく関東で躍進する北条家と激突した際、上杉憲正は敵をあなどって慢心する人物として、描かれていました。
長野業正は「北条は手強き相手ですぞ!」と忠告するも「なにを過剰に恐れておる?」と油断した結果、惨敗を喫します。(※河越夜戦)
業正は主君を戦場から脱出させますが、長男が重傷を追って死去するなど、心身ともに大ダメージを負ってしまいます。そこから上杉憲正の勢力はみるみる衰退し、家臣もどんどん離れて行きますが、それでも業正は「最後までお仕えいたす!」と忠義を曲げませんでした。
ちなみに業正の本拠地は3方を武田信玄・上杉謙信・北条氏康と、戦国でも屈指の勢力に囲まれており、守り切るのは至難の業です。しかし彼はここを拠点に、主家を守り続ける意志を、決して崩しませんでした。
ほどなくして武田軍が攻め寄せてきますが、それを撃退。しかし業正の居城は要所でもあり、是が非でも手中に収めたい信玄は、全部で6回にもわたり攻め込みますが、それさえもことごとく跳ね返して見せたのです。
戦国屈指の信玄をして「あやつがいる限り、あの地に手を出せぬわ!」と言わしめたと伝わり、その並外れた武勇に業正には、“上州の虎”という異名がつきました。
最後は病で死去しますが、その直前に「わしが息を引き取りし後は、墓前に敵の首級を供えよ。決して降伏はならず、運がつきたら潔く討ち死にせよ」と嫡男に遺言したといいます。
このように鬼のごとき覚悟で、忠誠を貫いた長野業正。もし彼が存在しない・・もしくは武田や北条に、くら替えをしていたならば、周辺の勢力図は大きく違っていた可能性もあります。
業正の忠義は、ある意味で戦国の勢力図を変えていたと言っても、過言ではないかもしれません。
②【朝比奈泰朝(あさひな・やすとも)】~桶狭間の裏側で~
ときは1560年、天下統一を目指す今川義元の大軍が、信長の支配する尾張へ攻め込みました。その今川軍にあって主力の1部を率いていたのが、この朝比奈泰朝という武将です。
織田方の砦を陥落させるなど、領内の奥深くまで進軍しますが、続く桶狭間の戦いで主君がまさかの討ち死に。今川勢は敗北して退却しますが、あと継ぎの今川氏真には父のような求心力はなく、みるみる弱体化していきました。
そうすると見限って離れたり、他の大名にくら替えする家臣が続出しますが、泰朝は「我らの主君は、今川家をおいて他になし!」と宣言。離反を画策した武将を成敗したり、隣国の武田家が不穏な動きを見せると、上杉謙信に援助を要請するなど、落ち目の今川家を支えるべく奔走しました。
しかし、ついに西から徳川軍、東からは武田軍が挟み撃ちの形で攻め寄せ、風前の灯火になります。まず今川家の本拠地である駿府が陥落しますが、それでも泰朝は氏真を自分の城へ保護して、徹底抗戦します。
そして5ヶ月ほど持ちこたえましたが、さすがに抗い続けても勝機はなしと悟ります。徳川家に「降伏すれば主君ともに命は助ける」との約束を取り付け、開城しました。
その後、泰朝は今川家と同盟を結んでいた北条家の元へ、主君の氏真につき従って向かいます。北条の庇護下にあっても、何とか今川家の再興をと立ち回りますが、さすがに強大となった武田や徳川などの勢力が相手では、情勢を覆すことはできませんでした。
一時は天下取りレースの最有力候補から、流浪の身分へ。これほどの落差で傾いた今川家ですが、最後まで尽くした泰朝の忠義は、紛れもなく本物と言えるでしょう。
歴史上はそこまで有名な人物ではありませんが、才能も決して凡庸ではなく「彼こそ、まことの武士」と称えられても良い武将かもしれません。
③【山中鹿之助(やまなか・しかのすけ)】~我に七難八苦を与えたまえ~
戦国時代も後半に差しかかる頃、中国地方には出雲の国を拠点とする、尼子(あまご)氏と言う大名が、一大勢力を築いていました。
一時は一帯を席巻する勢いを見せましたが、徐々に毛利元就のに勢力に、押され始めてしまいます。
そんな尼子家に仕えていた武将が山中鹿之助ですが、1566年には本拠地の城が陥落させられ、当主の尼子義久も捕らえられてしまいます。
鹿之助は京都へと脱出し、毛利家の手が届かぬ地で暮らしていましたが、そのとき尼子家2代前当主の孫、尼子勝久(かつひさ)と再会を果たします。そうすると彼をリーダーとして、尼子家の再興を目指して立ち上がりました。
その後、毛利家は九州の大名と戦いを開始しましたが、そのスキに尼子の旧家臣や残党など、約7千人を集めて挙兵。もと居城の奪還を目指しますが、九州から戻って体制を整えた毛利軍は、倍の14000人にも達しており、決戦で敗北してしまいます。
しかし鹿之助は勝久と戦場を脱出し、ゲリラ戦を展開。抗戦を続けましたが、毛利家の討伐隊に見つかり捕縛。それでも再び脱出して再起を図るなど、まさに不屈の精神を見せました。
この鉄の忠義は江戸時代に語り継がれ、人々から称賛されました。多くの講談師が鹿之助の物語を語り「彼は名前に“鹿”とついているが、その勇敢さは鹿どころではなく“戦国の麒麟”と呼ぶにふさわしい」とも評されました。
また三日月に向かって「月よ、我に七難八苦を与えたまえ!」と口にしたというエピソードも有名で、尼子家再興のためであれば、どんな困難にも立ち向かう忠誠心の象徴となっています。
そんな鹿之助は織田信長が勢力を広げると、その後ろ盾を得て3000人の兵で再び決起。しかし、さすがの毛利家も業を煮やしたのか、3万ともいわれる圧倒的な大軍を派遣し、尼子再興軍は撃破されてしまいました。
このとき秀吉が救援に向かっていたのですが、毛利の素早い動きには間に合わず、助けることは叶いませんでした。尼子勝久は切腹、鹿之助は捕らえられたのち、再びの脱走を警戒してか移送中に命を絶たれ、ここに尼子再興の夢は潰えました。
しかし、主家の悲願を最後まで諦めなかった精神は、後世にも大いに語り継がれ、現代にいたるまで多くの人に称えられ続けています。
ときに親族をも上回る絆
かつて大河ドラマ“~葵~徳川三代”では、家康がまだ頼りない2代目の秀忠に家督をゆずるとき、最も大切にするべきひとつに“忠義の家臣”と告げるシーンがありました。
ときに兄弟や親子でさえ裏切る乱世を経験していれば、なおさら貴重だったに違いありません。
いかに周りを出し抜くかに明け暮れた天下人が、最後の最後に頼るべきは“誠実”と結論するのは、何とも面白い話です。しかし、それほど貴重であるとも言え、これは戦国時代と言わず、もしかすると現代の世にあっても通じる真理かもしれません。