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武田信玄の死因は、病気? それとも鉄砲で撃たれた怪我が原因なのか?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
武田信玄。(写真:イメージマート)

 著名人が亡くなった場合、死因が明かされる場合とそうでない場合がある。戦国大名になると、文献により死因を解き明かすのは難しい。今回は、武田信玄を例として、死因を考えることにしよう。

 武田信玄が志半ばにして、信濃国駒場で亡くなったのは、元亀4年(1573)4月12日のことである。死を目前にした信玄は、3年間我が死を伏せよと命じたという。映画「影武者」では、仲代達矢さんが武田信玄の役を担当し、見事に死の場面を演じきった。

 ところで、信玄の死因については、諸説あって判然としない。1つは病気により亡くなったという説で、もう1つは鉄砲で撃たれた怪我がもとで、亡くなったという説である。まずは、後者を取り上げることにしよう。

 元亀4年(1573)1~2月にかけて、信玄は徳川家康と野田城付近で攻防を繰り広げていた。『松平記』によると、信玄が笛の音に誘われて野田城に近づいたとき、徳川方の鳥居三左衛門に狙撃されたという。

 この傷がもとになり、信玄は亡くなったというのである。あるいは、野田城が落城を迎えたとき、逃亡した城兵が武田軍に鉄砲を撃ち、その弾が信玄に命中したとも伝わっている。

 信玄が鉄砲で撃たれたということは、たしかな一次史料には書かれていない。ましてや、それが死因であると裏付ける史料もない。今となっては、これが史実か否かははっきりとしない。

 信玄には侍医がおり、その書状によると、信玄は「肺肝」に病を抱えていたという。具体的な病名は不明であるが、病死説が有力視される所以である。しかし、この見解に関しては注意がある。

 信玄の画像はいくつも残っており、中には痩せた姿で描かれたものもある。信玄の痩せこけた画像をもって、病気であると決めつけるのは、いささか飛躍がある。

 画像の成立年が問題であり、それが本当に死を目前にした信玄を描いたものか、疑問が残るからである。このほか、明確な根拠があるわけではないが、胃ガンで亡くなったという説もある。

 同時に注意しなくてはならないのは、当時の医者の技量であり、現在の医者と比較して明らかに未熟だった点である。「肺肝」に病を抱えていたと侍医が言ったとしても、それが事実なのか断定し難い側面がある。したがって、信玄の死因をめぐっては諸説あるが、それは永遠の謎なのかもしれない。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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