【独占インタビュー】「バカ殿やSMAPが大好きだった」日本育ちの米芸人、アツコ・オカツカ
昨年12月に配信開始したHBO MAXオリジナル『Atsuko Okatsuka: The Intruder(ザ・イントゥルーダー)』で、全米を笑いの渦に巻き込んだアメリカのお笑い芸人、アツコ・オカツカ(岡塚敦子)さん。
ビヨンセの曲と共に艶めかしく腰を下ろすドロップチャレンジ(Drop Challenge)も、ソーシャルメディアで話題になって久しい。
日本で育ち10歳で渡米したというオカツカさん。幼少期の話やコメディアンになった経緯、日米のお笑いの違いについて聞いた。
■ 千葉で育った幼少期
── 幼少期の話からまずお聞かせください。
日本人の父親と台湾人の母親の下、私は台北市で生まれ、生後3ヵ月で父の住む千葉県に家族で引っ越しました。両親はその後離婚し、化石燃料技術者として働いていた父は定年退職後、バリ島(インドネシア)に住んでいます。そんな父が今年の春に日本に一時帰国するというので、私も数年ぶりに日本に行き父と再会する予定で、今からとても楽しみです。
父は私がコメディアンとしてアメリカで活躍していることに大変驚いていますが、同時にとても喜んでくれています。私のスタンダップコメディは英語ですが、日本をはじめ世界中から反響があるので私自身も驚いています。
── 10歳で渡米したそうですね。何がきっかけだったのですか?
統合失調症の母が体調を崩したことがきっかけです。憶測ですが、おそらく文化や言葉の違いで日本に適応できなかったんだと思います。祖母がより良い環境を求めて母と私をアメリカに連れて来たんです。でも当時、私は引っ越すなんて思いもしませんでした。だって「2ヵ月バケーションに行くわよ」と言う祖母について行っただけですから。
アメリカ生活は突然始まりました。英語も話せないしカルチャーショックは大きいしで周囲に馴染めず、日本の父親とも会うことができず悲しい思いをしました。母親の症状は相変わらずで、私は子どもながらに母の面倒もみていました。
でも今考えると、このような辛い体験をしたからこそ、私はコメディアンになったんだと思います。自分が大変だった分、人には笑いと活力をもたらそうとしたんです。
これはステレオタイプな見方ですが、スタンダップコメディアンは幸せな人生からは輩出されないと言われています。「辛い体験があったからこそ人を笑わせ楽しい経験をもたらすことができる」、そういう風に言われているんです。
嬉しいのは、お客さんからいろんなリアクションがあることです。「パンデミック中に落ち込んでいたけどあなたのコメディで救われた」とか「大笑いしてハッピーな気分になれた」などのコメントが来ます。それを聞くたびに、私は今このように人を笑わせることができるようになったのだと嬉しく思います。
── あなたの話を聞いてアメリカのラッパーたちを思い出しました。ラップも貧困という困難な環境から生まれた才能ですよね。満ち足りた生活からあのような芸術は生まれてこなかっただろうから。
なるほどね、確かに。素晴らしい芸術は自分が心から表現したい気持ち、そしてほかの人にも伝えたい、与えたいっていうそのような気持ちから湧き出るものですよね。そしてそのような芸術を鑑賞し、良い芸術か否かの判断を下すのはいつもお金がある層ですね、皮肉なことに。
── 千葉に住んでいた頃の話もお聞きしたいです。日本というと、まずどのようなシーンを思い出しますか?
盆踊りが大好きでした。あとは公園とか最寄りの南行徳駅、富美浜小学校など。記憶違いかもしれませんが高島屋だったかな、デパートの屋上が遊び場になっていて鯉がいる池で餌をあげたり。子どもの頃の写真は動物に餌をあげているシーンばかりで、友人との写真はほとんどありません。私は同じ世代とつるまない風変わりな子どもだったので、やはりコメディアンの素質は当時から十分にありました(笑)。
あと思い出すのは食べ物です。働き者の父は仕事の帰りがいつも遅かったけど、家に遊びに行くと夕食を作ってくれて、私の好物は温めたらできるカレーでした。熱いからぐちゃぐちゃかき混ぜてフ~フ~冷ましながら食べたりね。今でもコメディの仕事から夜遅く帰るとカレーが食べたくなるんですよ。私はもうアメリカ人だからチーズを載せますけどね(笑)。
『クレヨンしんちゃん』や『ちびまる子ちゃん』もよく観ていました。SMAPや日本のお笑いも好きでした。お笑いタレントで好きだったのは志村けんさんです。子どもにはやや大人っぽい内容でしたが「バカ殿様」や「変なおじさん」は大好きでした。渡米後もYouTubeで「天才!志村どうぶつ園」をチェックしたりもしました。
日米のお笑いは少し違います。日本のお笑い芸人は芸能事務所に所属し、長い間第一線でい続けますよね。そしてネタはフィジカルユーモア(体や動き、見た目)で表現するものが多いですね。一方アメリカのお笑いは言葉そのものによるジョークが多いです。それでも私は子どもの頃に見た日本のお笑いが好きだから、自分のスタンダップコメディでは時々フィジカルユーモアを使うんです。
■ 米国でお笑いの世界へ
── コメディアンとして始動したのは2008年だそうですね。小さい頃からの夢だったのですか?
子どもの頃はコメディアンという職業があることすら知らなかったです。
お笑いに興味を持ったきっかけは、15歳の時に観た、同じアジア系女性スタンダップコメディアンのマーガレット・チョー(Margaret Cho)のステージでした。DVDで観て、なんて面白いんだろうって感動しました。彼女は音楽や演出など一切なしで、1時間ぶっ通しで喋り通し、観客を引き込むんですよ。
私のデビューは二十歳の頃で、ロサンゼルスのコメディクラブ「コメディユニオン」の舞台でした。いざ自分がお笑いの世界に入り、プロとしてやるとなると大変でした。日本では養成所に入ったり芸能事務所に入ったりすることからスタートすると思いますが、アメリカではまずスタンダップコメディのクラスを受講します。そしてオープンマイク(飛び入りで参加するステージ)を経験し、コメディクラブのオーディションを受け、オーナーに認められると出演の機会が増えます。自分で劇場を予約したりチケットを売ったりして、自分で自分のショーを始めるんです。時にはほかのコメディアンにコラボを依頼し、多くの人の目に触れる機会を作ったりもします。
途中で学校に行ったり休憩をしたりもしたので、お笑いのキャリアは通算13年くらいになります。最初は自分のお笑いに自信がなかったから「本当はそれほど面白いと思われてないんじゃないか」と疑心暗鬼になったり「きっとテレビのお笑いのアジア系枠は1人分しかないだろう」などネガティブな気持ちになることもありました。この世界では、ほかのどの芸人とも被らない自分だけのオリジナルの芸風が見つかるまで10年かかると言われています。私も自分のスタイルを確立し、自分流でこれで行けると自信が持てるようになるまで、9年ほどかかりました。
── 普段、笑いのネタはどこからくるのですか?
スタンダップコメディ界では「ネタは怒りから」とよく言われます。私も普段の生活でモヤっとしたことをコメディに落とし込むことは多いです。また夫との会話や日常生活で「これ面白い!」と思ったことも取り入れます。
私は人の心理や人間性に興味があるので、哲学や葛藤の中で人がどのように振る舞うかなどを考えることは、笑いのテーマや構成を考えるのにとても役立っています。
── ブレイクを実感したのはいつ、どんな時でしたか?
所々であるのですが、まず変わった体験で言うと、2019年にロサンゼルスで行ったステージです。ショーの途中でマグニチュード7.1の地震が起こったんです。予期せぬ出来事でしたが、そんな中でも私はお客さんを気にかけながら笑いを取ることを忘れませんでした。それが話題となり動画が多くの人の目に止まり、知ってもらえるきっかけになりました。
2020年には『Let’s Go Atsuko!』(動画プロジェクト)の放映権が売れ、テレビ出演の機会も増えました。ステージの場数を踏むと、自分が落ち着いてリラックスできるようになります。自分がゆったり構えると、観ているお客さんもリラックスして心地よく観てくれるんだとわかってきました。ステージで100%自信を持てるようになるまで長い時間がかかったけど、途中で諦めず自分の好きなことを続けてきて、今に至ります。
パンデミック中も多くの人に知ってもらうことができました。暗い日々に人々が渇望したのはお笑いでした。そして私は随分とソーシャルメディアに助けられています。SNSのツールによって私のお笑いは全米のみならず世界中に無制限に広がっていきました。
── 最後に今後の抱負をお聞かせください。
今年も引き続き、皆さんを笑いの渦に引き込んでいきたいです。3月まで全米ツアー中ですが、同時に新たなコメディ番組の制作に入っているところです。
その合間に訪れる日本も本当に楽しみです。滞在中は父と再会したり、夫に私が育った街を見せて回ったりする予定です。なんせ2016年以来の日本です。恋しい気持ちが募っていますから、きっと感傷に浸る旅になるでしょう。
日本の方にももっと私のことを知ってもらえるきっかけがあれば嬉しいです。まだ多くのファンがいるわけではないので、私のジョークに触れる機会が増えればいいですね。希望としては秋ごろにまた日本に戻り、大きなステージができたらと考えているんです。あるプロデューサーの方が、私がお笑い養成所で日本のお笑いを学んでステージに立つドキュメンタリーを作りたいって言ってくださっています。今後どう動いていくでしょうか。楽しみにしていてください!
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(Interview and text by Kasumi Abe)無断転載禁止