巨大台風、地震…「コロナ禍でも災害は待ってくれない」遺体に向き合う歯科法医学者が訴える平時からの備え
歯科法医学者・斉藤久子氏へのインタビュー
(千葉大学法医学教室准教授/歯科医師、法遺伝学者)
■平時から有事に備えることの大切さ
――新型コロナウイルスの感染が拡大する中、豪雨による洪水被害や地震が相次ぎ、巨大な台風も近づいています。日本は今、大変な危機に直面していますね。
斉藤 本当にそうですね。7月に全国各地を襲った豪雨災害を目の当たりにし、「このコロナ禍においても、災害は待ってくれないのだ」ということを痛感しています。
――あのときの豪雨被害は35県に及び、死者は82名、行方不明者が4名報告されたそうです(8月7日時点)。これまで数多くのご遺体に向き合ってこられた斉藤先生のご経験から、今、何に対して、どのように備えるべきだと思われますか。
斉藤 たとえば、被災者がウイルス等に感染していないとは限りません。国は災害時におけるこうした感染リスクについてもっと深刻にとらえ、ご遺体を搬送する人たちや、現場で死亡診断や身元確認にあたる医療従事者らに対して、感染防止のための防護用品や機器をしっかり用意するなど、しかるべき対策をしていただきたいと思います。
――死者・行方不明者が2万人以上にのぼった東日本大震災のとき、斉藤先生は発災直後に被災地へ駆けつけ、固く閉じた遺体の口を開いて膨大な数のデンタルチャート(歯科所見)をとられました。また、つい先日『人間の履歴書』(BS12)というドキュメンタリー番組も拝見しましたが、歯科医師が身元究明のためにどれほど重要な仕事をされているか……、多くの方に見ていただきたい内容でした。
斉藤 私の場合は歯科法医学者として、主に「歯」のDNAから身元不明遺体の個人識別をおこなってきました。歯は人間の身体の中で最も固く、亡くなってからも永く残ります。歯に治療痕があれば、その情報とカルテやレントゲンなど生前の歯科情報を照らし合わせることで個人識別ができるのです。
遺体の損傷が激しい場合や、死後、長期間が経過しているような場合、最終的な身元確認の手掛かりは「歯」になるのです。
――東日本大震災のときは全国各地から医師や歯科医師が被災地の遺体安置所に応援に駆け付けたそうですが、コロナ禍の今、他県からのボランティアすら断っているくらいですから不安ですね。
斉藤 そうですね。もし今、大規模災害が起こって、他県からの応援がない場合、いったいどうすればよいのでしょうか。また、遺体安置所で「3密」を防ぎながらどうやって諸々の作業するのか、具体的に考えておかなければなりません。
これは、3.11(東日本大震災)のときに痛感したのですが、「平時から有事に備えること」、そして「多職種での情報共有」が最も大事です。「マニュアル」はもちろん、人も機器も防護用品も、しっかり備えておくべきだと思います。
■変死体にもPCR検査が必要な理由
――法医学教室には、日々、さまざまな事件や事故による「変死体」が運ばれてくると思います。解剖にあたる先生方もウイルス感染が心配ですね。
斉藤 警察から搬送されてくる異状死体に接触する私たちは、常にさまざまな感染症のリスクにさらされています。
たとえば、死後CTで肺炎は見つけられても、新型コロナウイルスかどうかは解剖をしてさらにPCR検査をしてみなければわかりません。
――千葉大学法医学教室では全国に先駆けて、変死体に対してウイルス感染の有無を調べておられるそうですね。
斉藤 はい。警察が「異状死」として取り扱うご遺体の中には、自宅や屋外で死因不明のまま発見されるケースが多いのですが、そうした方の中にも感染者が含まれている可能性があります。そこで、「法医学教室に運ばれてきたご遺体のPCR検査は私たちでできるようにしておこう」ということになり、法遺伝学者で薬剤師の永澤明佳先生と相談しながら準備をし、今年3月後半から取り組み始めました。
――つまり、感染しているにもかかわらず、診断を受けないまま病状が悪化して亡くなる方もいるということですね。
斉藤 そのとおりです。今は感染を恐れて受診を控えている人も多いと思われますし、そもそも体調が悪くても病院に行かないで我慢する人はかなりおられるのが現実です。
――実際に、『変死体のコロナ感染11件…5都県、1か月間で』(2020.4.21/読売新聞)という報道もありました。
斉藤 万一、感染が確認された場合は、ご家族や濃厚接触者の感染の有無を調べることで、さらなる感染拡大を防ぐことができます。だからこそ、事故や事件、孤独死、自死、行き倒れ、また、災害で亡くなったご遺体も、本来は感染の有無を確認すべきだと思います。
■変死体の死因を明らかにするため、独自に奮闘する日々
――ところで、歯科法医学者である斉藤先生が、なぜPCR検査を?
斉藤 私は最初、ヒトのDNA型を研究していたのですが、現在の教授が当教室に着任されてからは、ヒトに後天的に寄生するウイルスや細菌のDNA多型を応用して、身元不明遺体の出身地域を推定できないかということから、単純ヘルペスウイルス1型、水痘・帯状疱疹ウイルス、B型肝炎ウイルス、C型肝炎ウイルス、ヘリコバクターピロリ菌などの研究を行うことになったのです。
――つまり、斉藤先生はウイルス検出の専門家でもいらっしゃるわけですね。
斉藤 はい。今回の新型コロナは「RNAウイルス」です。ですので、まずは検体からRNAを抽出し、そのあとに「RT-PCR(Reverse Transcription-PCR)」をおこないます。PCR検査というのははとても繊細な作業で、これを間違いなく行うには、豊富な経験と手技が必要となります。
――ご遺体の場合、検体はどのように採取するのですか。
斉藤 解剖時に肺から組織をとったり、鼻咽頭を拭ったりしてそれを使います。
――身体を切り開いてからPCR検査をするのですか?
斉藤 法医解剖の執刀者やスタッフの安全を守るためにも、本来は解剖の前に検査すべきですが、残念ながら今の日本ではそういうルールが整備されていないのが現状です。
――法医学教室で行われるPCR検査の費用は、国から支払われるのでしょうか?
斉藤 いえいえ、私たちが法医学教室で行っているご遺体のPCR検査費用はどこからも出ません。『ご遺体の死因を明らかにするために、誰に頼まれたわけでもなく、感謝されてもいないのに、独自で奮闘している……』というのが現実ですね。
■死因究明後進国の日本に、今不可欠なのは「人材育成」
――斉藤先生はさまざまな国の死因究明現場を視察されてきたと思いますが、日本と比べていかがでしたか。
斉藤 もう、すべてにおいて比較になりません。
私の場合は、オーストラリア(メルボルン)、フィンランド、アメリカなど死因究明先進国を視察し、2010年にはスウェーデンのカロリンスカ研究所に留学しました。また、東日本大震災の後は、女性の歯科法医学者が結集して『JUMP(Japanese Unidentified and Missing Persons Response Team)』という任意団体を立ち上げ、『3.11 Identity 身元確認作業に従事した歯科医師の声を未来へ』という本を出版し、このメンバ―とともに、海外の身元確認先進国を調査してきたのですが、死因究明のための施設も人員も、機械の台数も太刀打ちできないと感じました。
当然、各種検査や解剖率にも差が出ています。私たちは大学の中の一教室で法医解剖を行っていますが、外国では国の機関が多額な予算をつけて運営しているようです。日本でいえば科警研のようなかんじでしょうか。
――今、日本の死因究明や身元確認の現場にもっとも必要なことは何だとお考えですか。
斉藤 なんといっても人材育成です。感染症や大規模災害といった有事の際も、人材とそのポストがなければ動くことができません。今の日本でご遺体のPCR検査を全国一律に実施できない原因のひとつは、ここにあるといえるでしょう。
「人を育てる」ということは、将来的には必ず社会に還元することができます。今すぐにでも教育を始めないと手遅れになってしまいます。今回の新型コロナをきっかけに、国も少しずつ私たちの声にも耳を傾けてくれていますので、今後に期待したいと思います。
――ありがとうございました。