大麻に烙印を押した男
■ハリー・アンスリンガーという男
アメリカは今大麻(マリファナ)で揺れている。
数十年間法禁物であった大麻だが、2021年9月の時点で、36州が医療用大麻を、また18州が嗜好用大麻を合法化している。ただし連邦レベルでは1970年の規制物質法(Controlled Substance Act)によって、大麻はヘロインと同じ最も厳しい〈スケジュールⅠ〉に指定されたままであり、連邦と州のねじれた関係が続いている。
これから述べる話は、現役時代の30年以上にわたってマリファナに対する国民のイメージを決定づけた、ハリー・アンスリンガー(Harry J. Anslinger、1892-1975)という男の話である。彼は、反マリファナ・キャンペーンを仕切り、アメリカと国際的な麻薬対策法の施行と立法の歴史に最も重要な影響を与えた。アメリカにおける薬物規制の歴史を語るとき、この男を無視するわけにはいかない。どんな文献でも必ず言及されている。しかも、例外なく否定的な評価とともに。
■北米大陸の大麻
ラ・クカラーチャ~♪
もともと北米大陸には、陶酔成分(THC)をほとんど含まないヘンプと呼ばれる大麻が自生しており、強靱なロープや布の原料として重要な植物であった(日本に古代から自生した「麻」も同じ)。アメリカ建国の父、ジョージ・ワシントンもヘンプで財をなした。
他方、陶酔成分を多く含むインド大麻(マリファナ)は、16世紀にスペイン人によって南米大陸に持ち込まれ、これが徐々に北上していった。そして、19世紀末にはメキシコの農民たちは普通に大麻を栽培し、喫煙し、実を食べていた。
20世紀になってメキシコは激動の時代を迎える。長く統治していたポルフィリオ・ディアス(Porfirio Díaz、1830-1915)は国民に不人気で、経済も不安定であった。このため、多くのメキシコ人農民がアメリカ国境を越えて北上し、テキサス州やニューメキシコ州に移住した。マリファナ喫煙の習慣も持ち込んだ。そして、1910年のメキシコ革命によって、さらに大量のメキシコ人がアメリカに流れ、マリファナの使用率も高まっていった。
- 日本でもよく知られているメキシコ民謡に、「ラ・クカラーチャ」(La Cucaracha)という歌がある。これはメキシコ革命の頃、ディアス打倒に蜂起した農民部隊で歌われた歌で、タイトルは「ゴキブリ」という意味である。兵隊たちは自分たちのことを自虐的に「ゴキブリ」と呼んだ。彼らは戦闘の緊張を緩和するためにマリファナを吸っていた。
La Cucaracha 歌の中で何度も「マリファナ」という言葉が聞こえてくる。
アメリカで「ジョイント」(紙巻きのマリファナ)のことを「a'roach」(ゴキブリ)と呼ぶことがあるが、この歌から来ている。
大麻はヘイトのシンボルになった
多くのアメリカ人は、メキシコ人移民労働者を軽蔑と不信、そして不安の目で見ていた。しかし、他方でアメリカはメキシコ人を必要としていた。安価な労働力としての彼らを認めざるを得なかった。
カリフォルニア州の果物や野菜の収穫人、コロラド州やモンタナ州のビート農場などが彼らの仕事場だった。低賃金のメキシコ人を雇える地主は、小規模農家の経営を圧迫したが、メキシコ人が人種的な恨みを受けていった。彼らの習慣だったマリファナが「エイリアン・ドラッグ」とレッテルを貼られ、マリファナが何の根拠もなく犯罪や非行と結びつけられた。大麻は移民労働者攻撃のシンボルになった。
アメリカ国民の不満は、1929年からの世界恐慌によって決定的になった。社会に対する不満は、「白人から仕事を奪う」メキシコ人労働者に向けられた。そして、彼らの習慣であったマリファナ喫煙がヘイトのシンボルとなっていった。
特に多くのメキシコ人が住んでいたカリフォルニア州では、優生学協会の創設者であったチャールズ.M.ゲーテ(Charles Matthias Goethe、1875–1966)が、移民排斥のためのロビー活動を活発に行っていた。1935年の『ニューヨーク・タイムズ』紙に彼は次のような投稿を行っている。
こうした流れに油を注いで火をつけたのがアンスリンガーだった。
■アンスリンガーが火をつけた
悪名高いアメリカの禁酒政策は1920年から始まり、1933年の禁酒法廃止によって終わった。
最初の担当部署であった禁酒課は、1914年に米財務省内国歳入局が設立した麻薬課を母体として1919年に発足した。この部署は、麻薬に関する税の徴収を主な仕事としていたが、禁酒法の施行に伴い1927年に「禁酒局」に格上げ、改称された。
しかし、不正疑惑が持ち上がったため、政府は財務省に新たに麻薬局を設置することを決定し、1930年に連邦麻薬局(FBN=Federal Bureau of Narcotics)が誕生した。その初代長官に任命されたのが、アンスリンガーだった。彼には、アメリカ国内の合法的な薬物と違法な薬物の両方に関係する法律を実施し、監督するという任務が与えられた。
ところが、FBNが設立されてからすぐに大恐慌の影響で国の税収が大幅に下がり、FBNの予算もかなり削られた。アンスリンガーは、組織を強化するために大麻と真剣に向き合うことにした。
彼は、マリファナがレイプや殺人を誘発すると主張し、中毒者による殺人事件の記事を新聞に載せたり、マリファナをアヘンやコカインと並んで規制ドラッグに指定するように訴えた。
- アンスリンガーは、「マリファナ」(marihuana)という言葉をメキシコのアステカ・インディアンと歴史的に結びつけようとした。彼の主張によれば、大麻はアステカ民族の言語であるナワトル語で「malihua」または「mallihuan」と呼ばれていたという。これは、「noun mallin」(囚人)と前置詞である「hua」(財産)、それに動詞 である「ana」(捕獲する、取る、つかむ)から構成されていると主張した。つまり、「mallihuan」(milan-a-huanと表記されることもある)とは、〈大麻に捕らえられた囚人(中毒者)〉のことだと彼は主張した。
当然のことながら、マリファナに対する世間の認識は異常に高まり、YWCAやYMCA、女性キリスト教テンペランス同盟、全米保護者協会などの幅広いロビー団体が、マリファナを州の統一麻薬法に盛り込むよう活動した。
アンスリンガーは、国際的なキャンペーンにも着手した。
1936年6月にジュネーブで開催されたドラッグ不正取引防止会議で、アンスリンガーは大麻の国際的な取締りを要求した。しかし、参加国からは、大麻の反道徳性を強調する彼の主張には十分な証拠がないとして拒絶された。
1937年には、マリファナの合法的な流通に法外な税を課すことを目的としたマリファナ課税法が成立する。公聴会に呼ばれたアンスリンガーは、「驚くべき衝撃的な話」を繰り返し述べ、アヘンはジキル博士の善良さとハイド氏の邪悪さを併せ持っているが、マリファナは完全にハイドという怪物であると証言した。
- マリファナは、今では「marijuana」と表記されるが、マリファナ課税法では「marihuana」と表記されていた。差別的な響きをもっていた言葉(綴り)が意図的に法名に使われた。
法案が最終的に議会に提出されたのは、週末で多くの議員が出払っていた金曜午後の遅い時刻だった。審議は数分で終わって可決された。
マリファナ課税法は、1937年8月2日にルーズベルト大統領が署名し、10月1日に施行された。これがマリファナを直接規制する初の連邦法となった。
■自家撞着に陥ったアンスリンガー
マリファナ課税法ではマリファナじたいは合法だが、その流通に携わる者は登録が必要で、取引の都度1オンス(約28グラム)100ドルの税金を払わなければならなかった。これは、1937年のフォードY型サルーンカーの新車価格が205ドルであったことを考えると、大変なことである。
マリファナは、アンスリンガーの読みどおり、次第に抑え込まれていった。
しかし、他方で彼はこの法律で自分自身の首を絞めることにもなった。
一つは、マリファナはどこにでも生えている雑草であり、根絶やしにすることはできない。それに比べてヘロインはかなり危険だが、はるかにコントロールしやすい。マリファナはヘロインと違って、組織化された密売ネットワークがなかったからだ。売人は簡単に逮捕できたが、その背後にいる〈麻薬王〉は逮捕できなかった。アンスリンガーの非公式な方針では、FBNはアヘンとコカインの密売組織は追跡はするが、実際にはマリファナを標的にするというものだった。彼は、再び反マリファナ・キャンペーンにエネルギーを注いでいった。
もう一つは、凶悪事件を起こした依頼人がマリファナを使用していると、弁護士たちは、(若者がマリファナの犠牲者であると主張した)アンスリンガーが書いた『マリファナ:青春の暗殺者』を引用して、その犯罪がマリファナのせいだと主張しだしたことだった。
この理屈は、1938年1月、ニュージャージー州ニューアークの2件の殺人犯の裁判で最初に主張され、いずれの事件でも、マリファナ課税法案の公聴会でFBN側の専門家として証言していたジェームス・ムンク(James Munch)博士が弁護側の証人として呼ばれ、結果的に彼らは電気椅子を免れることができた。
アンスリンガーはムンクに手紙を出し、今後弁護側の証人として証言するのをやめるように、さもなくばFBN特別顧問の職を打ち切ると伝えた。ムンクはそれに従った。
■大麻は再び雑草になった
アンスリンガーが情熱を傾けたマリファナ課税法がアメリカの大麻産業を消滅させてから4年後、突然、大麻の需要が急増した。
1941年12月に真珠湾が攻撃され、南太平洋からの安いヘンプ(大麻繊維)の輸入が危機に瀕したことから、アメリカ政府はマリファナに対する国民の不安を払拭し、「勝利のためにヘンプを育てよう」というキャンペーンを展開した。
中西部の約2万人の農家が、連邦政府の補助を受けて3万本以上のヘンプを栽培した。彼らは、戦時中、年間42,000トンの繊維と180トンの大麻種子を生産した。大麻の実から採れた油は、航空用の潤滑油として使用された。大麻政策に賛同する農家には息子の兵役が免除された。
米国農務省(USDA)は、14分間の愛国的なプロパガンダ映画を製作し、「船の係留用の大麻、曳き綱用の大麻、タックルやギア用の大麻、船上や陸上での数え切れないほどの海軍用の大麻」と、大麻を賛美した。
プロパガンダ映画「勝利のための大麻草」
戦争が終わって大麻繊維の輸入が再開されると、国内の生産量は減少し、1946年以降は大麻栽培計画も消えた。その結果、何千エーカーもの大麻が収穫されずに残った。大麻は再び雑草としての地位を取り戻した。
戦時中のアメリカ政府がヘンプを求めたのは、繊維以外にもあった。
1942年、中央情報局(CIA)の前身である戦略サービス局(OSS)は、敵の工作員や捕虜を尋問する際に使用する〈真実を吐かせる薬〉として、マリファナを研究した。最初に抽出されたのは「ハニーオイル」と呼ばれ、被験者の食事に入れられた。すると彼らは笑い出したり、ひっきりなしにしゃべったり、口をつぐんだりした。報告書には、「ハニーオイルの最も一般的な効果は笑いの発作である」と書かれている。10年以上前からマリファナは脳を破壊する麻薬だとして攻撃していたアンスリンガーは、この報告書に署名したのであった。(了)
【資料】
- 黒田悦子「メキシコ系アメリカ人:越境した生活者」国立民族学博物館研究叢書第2巻21頁以下、2000年3月
- ジャック・ヘラー(エリック・イングリング訳)『大麻草と文明』(築地書館株式会社、2014年10月)
- 佐久間裕美子『真面目にマリファナの話をしよう』(文藝春秋、2019年8月)
- ナショナルジオグラフィック別冊「マリファナ 世界の大麻最新事情」(日経BPマーケティング、2020年3月)
- ヨハン・ハリ(福井昌子訳)『麻薬と人間 100年の物語』(作品社、2021年1月)
- 山本奈生『大麻の社会学』(青弓社、2021年7月)
- Martin Booth, CANNABIS, Bontam Books, 2004
- Martin A. Lee, Smoke Signals:A Social History of Marijuana, Simon & Schuster, 2012
- David Farber, The War on Drugs, New York University Press, 2022