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新型コロナウイルスと中東:ハッジって何?

髙岡豊中東の専門家(こぶた総合研究所代表)
2019年のハッジの際の宿営テント群(写真:ロイター/アフロ)

 サウジアラビア王国(以下サウジ)の当局は、今期のマッカ巡礼(ハッジ)の受け入れを大幅に減らすと決定した。それによると、65歳以下の慢性疾患のない者のみがハッジを実施できる。現時点では、受け入れ数をサウジ在住者からの1000人程度とし、受け入れ数を数万人、数十万人とすることは想定していないようだ。いずれにせよ、昨期に世界中から約250万人がハッジを行ったことと比べれば、劇的な規制といえる。また、ハッジを実施する者たちには、事前の検査と事後の14日間の自宅待機が科される。その上、ハッジ実施のための係員たちにも、検査とハッジ期間中の健康監視がされる予定だ。ハッジが行われない、または規模が著しく制限されるのは、「現代では」初めてとの由である。「現代では」との但し書きが必要なのは、歴史的には反乱や政治・経済の混乱、そして疫病の流行によってハッジができなかった年もあるのだが、「現在になる前」にサウジの前身である「第一次サウード王国」とその宗教的基盤だったワッハーブ運動によりハッジが実施できなかった年もあることが知られているからかもしれない。

 そもそも、ハッジとはイスラーム暦の第12月の上旬から中旬にかけての時期(今期は太陽暦の7月下旬)に、マッカとその郊外で決められた手順に従って行うものである。これは、ムスリムの義務である五行(信仰告白、礼拝、喜捨、断食、巡礼)の一つである。なお、上記の期間以外の期間に行う巡礼は、「ウムラ」と呼ばれハッジとは区別され、五行とはみなされない。また、五行の義務といっても、ハッジは共同体の中でそれが可能な者が行うものと考えられている。

 ハッジを実施した者は、「ハーッジ(女性ならハーッジャ)」と敬称で呼ばれるようになる。ハッジの実施は行った本人の心境にも少なからぬ影響を与えるようで、筆者にもこれをきっかけに髭を伸ばし、飲酒をやめた知人がいる。これは、かつてマッカまで出向いてハッジを行うのに徒歩等しか移動手段がなくハッジが困難だった時代に、それを行った者が尊敬されたことの名残である。交通機関が発達した現在では、サウジ国外からハッジに参加する者が急増し、1950年代には10万人、1980年代に100万人を超えた(『岩波イスラーム事典』489頁)。ハッジ実施者の急増に伴い、ハッジの諸儀礼をおこなう施設やマッカの町の混雑が深刻な問題となり、将棋倒し事故や宿営地での火災などで1000人以上が死亡することも珍しくない。また、宿営地の衛生環境の保全や、安全な水や食料の供給も重要な問題である。それ故、ハッジの受け入れ国であるサウジにとってハッジの安寧は国の威信をかけた問題であり、同国政府は諸施設の拡張などに努めている。

 その上、世界中から多数が集まる中で政治的騒乱・暴動、テロ事件のようなものが発生するのは大失態とみなされるから、サウジのみならずハッジ実施者を送り出す諸国にとっても、「どのような人々(主に年齢で規制をかける)を、何人」ハッジに受け入れ・派遣可能かは平時においてもそれなりに気を使う問題である。見方によっては、ハッジの受け入れ数と条件の操作はサウジにとって外交上の武器とさえなりうる。さらに、近年ではハッジやウムラを「宗教観光」のような経済的観点からとらえる傾向も強まっている。そうした視点からは、ハッジ実施者の受け入れ削減は、経済的な大損失である。なお、サウジ当局は、ウムラの実施については中国発の新型コロナウイルス対策の一環として既に停止している。

 アラビア半島諸国や中東諸国では、現在も新型コロナウイルスによる感染者・死者数が増え続けており、ハッジを契機にそれがさらに増幅するのを防ぐ、という意味で今期のハッジに科される規制は必要な措置であろう。一方、ハッジは平時においても事故・国際関係・経済状況など諸々の事情に取り巻かれており、諸当事者にとっては緊張を強いられる一大行事であることを忘れてはならない。

中東の専門家(こぶた総合研究所代表)

新潟県出身。早稲田大学教育学部 卒(1998年)、上智大学で博士号(地域研究)取得(2011年)。著書に『現代シリアの部族と政治・社会 : ユーフラテス河沿岸地域・ジャジーラ地域の部族の政治・社会的役割分析』三元社、『「イスラーム国」がわかる45のキーワード』明石書店、『「テロとの戦い」との闘い あるいはイスラーム過激派の変貌』東京外国語大学出版会、『シリア紛争と民兵』晃洋書房など。

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