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【戦国時代】じつは北条氏政は名君だった?“ダメ武将”レッテルの裏側に見えるもう1つの姿を解き明かす

原田ゆきひろ歴史・文化ライター

戦国時代で最強レベルの武将と言えば、武田信玄や上杉謙信の名がまっ先に挙がるところですが、当時の関東にはその2人に勝るとも劣らない大名が、存在していました。

その名は北条氏康(うじやす)。上杉も武田も氏康が率いる北条軍と戦った歴史がありますが、最後までその勢力を打ち崩すことは出来ませんでした。

文武両道の名将という評価が定着している彼ですが、その跡を継いだ北条氏政(うじまさ)となると、多くの場合で見方が一変。豊臣秀吉に逆らい北条家を滅ぼしてしまった事実から、情勢を読めないダメ武将の烙印を押され、語られることの多い大名です。

しかし氏政は本当に残念なだけの、愚将だったのでしょうか?この記事では、よくあるイメージとは違う視点にフォーカスしてみたいと思います。

まっ先に挙げられるエピソード

まず氏政の平凡ぶりを象徴するものとして、有名なものでは以下の様なエピソードがあります。あるとき彼は父の氏康とともに食事をしていました。

その際、ご飯にお味噌汁をかけて食べようとしましたが、少し足りないと感じた氏政は、もう1回つぎ足しました。それを見た氏康は嘆きます。

「こやつはもう何回も、同じ食べ方を経験しているというのに、かける汁の量さえ把握しておらんとは。このような有り様で、人の実力を測れようか?北条家も、こやつの代で終わりか」。

また安土桃山時代に入り、氏政が立て籠もる小田原城は豊臣家の大軍に城を囲まれてしまいます。その際「いったい、どう打開すれば」と、何度も会議を開くものの、何の解決策も出ず進展に繋がりませんでした。

このエピソードは通称“小田原評定”と呼ばれ、今の世にも“いつまでも結論の出ない、ムダな会議”の比喩として存在するほどです。

そうしてついには降伏し、秀吉から切腹を命じられてしまいます。相手の力量も分からず、北条家を潰した当主として愚将のイメージが、沁みついてしまいました。

名将相手にも引けを取らなかった?

それでは他の足跡を辿ると、どうであったのでしょうか。まず戦国武将として重要な軍事面で見ると、じつは武田信玄と対峙して渡り合っていた史実もあります。

ときは1568年、武田信玄が今川家に攻め込む“駿河侵攻”という戦いが起こりますが、氏政は今川家の援軍として出陣し、武田軍に攻めかかりました。それまで武田軍は破竹の勢いでしたが、背後の北条軍を撃退できず侵攻はストップ。

ついには今川領を制圧どころか、逆に窮地に追い込まれて退却。これは通称“信玄の樽峠(たるとうげ)越え”と呼ばれます。とにもかくにも、駿河侵攻をいちどは挫折に追い込んだのでした。

ちなみに、このとき氏政が率いていたのは大軍であり、今川軍と連携して挟み撃ち、父の氏康は当主を引退するも本拠地に健在など、北条軍に有利な条件は揃っていました。

そうはいっても武田も大軍であり、味方の今川軍も西側では徳川家の攻勢を受けていました。この状況で実際の戦場で采配を振るい、信玄を撤退に追い込む戦果が、暗愚な武将に成し遂げられるでしょうか。

なお、その翌年には武田VS北条の直接対決(三増峠の戦い)が起こり、この合戦では信玄が勝利しています。しかし、このとき氏政は援軍に向かう途中で、合戦に間に合わなかったという事情もありました。

また時が経って武田家が滅亡すると、関東地方には織田家の滝川一益(たきがわ・かずます)が進出して来ました。最初は北条家と協調姿勢が築かれるも、本能寺の変が起こると表立って対立関係になります。

このとき氏康は亡くなっており、北条軍は氏政を頂点としての立ち回りでしたが、決戦(神流川の戦い)に大勝利。周辺地域の制圧に成功しています。ちなみに滝川一益は逃げ伸びますが、信長の実質的な後継者を決める清須会議に間に合わず。天下人へ至るレースから、大きく後退してしまいました。

その後、氏政は勢いに乗じて今まで領有していなかった他方面にも、進軍して行きます。下野(今でいう栃木県)や、常陸(今でいう茨城県)の南側までも支配下に。

こうして、北条家の版図は石高にして約240万石とも言われる、歴代の北条氏当主の中でも最大版図を築き上げました。


なぜ豊臣秀吉に逆らったのか?

また一番の問題となる“他大名の力量を測る目”ですが、氏政は織田信長が台頭したタイミングで、政略結婚を持ちかけた過去があります。しかし信長の策略もあってか、何かと理由をつけられ、同盟の話は先延ばしになってしまいます。

そして武田家を討つ“甲州征伐”では、信長と家康に呼応して北条軍も出兵したものの、戦果は織田家と徳川家にいいとこ取りをされ、挙げ句のはてに北条家の領地は削られる結果になっています。

とうぜん不満はあったでしょうが、力関係からも強くは出られず、条件を吞まされた過去がありました。歴史的な結果を見れば氏政は、たしかに豊臣秀吉に対抗すべきではなく、その理由も様々な説があります。

しかし仮に「強者に頭を下げれば、いい様にされてしまう」という学習の結果が一因であるとすれば、擁護の余地がある部分かも知れません。

北条氏政は名君?暗君?

なお冒頭の“お味噌汁”のエピソードは、江戸時代に書かれた創作とする説も少なくありません。また“小田原評定”についても、見方を変えれば独断で突っ走らず、家臣の意見に耳を傾ける、民主的な体制だったと捉えることもできます。

また戦国大名というのは往々にして、滅びる瞬間は周りの大半が離反するもので、武田勝頼も最後につき従っていた家臣は数十名とも言われます。北条家も豊臣家との戦いでは、その圧倒的な軍事力になびいたり、降伏した味方勢力もいました。

しかし本拠地の小田原城は最後の降伏時まで、なお数万の兵や家臣がつき従っていました。もちろん家来たちの本音まで知るすべはありませんが、氏政が見放したくなるダメ武将であれば、これだけの人々が事前に逃亡せず、ともに城へ立て籠もるでしょうか。

・・このように、本記事では暗愚のイメージがつきまとう北条氏政に対し、主に名誉回復をするような視点で、お伝えさせて頂きました。ただ、彼を“名君”のように扱う見方もまた、押し付けるものではありません。

歴史とはいつの時でも、様々な評価があって当然かと思います。ただ、どのような場合も1つの価値観だけに縛られず、いろいろな角度から見ることが、より豊かな視野を得るために大切だと感じます。


歴史・文化ライター

■東京都在住■文化・歴史ライター/取材記者■社会福祉士■古今東西のあらゆる人・モノ・コトを読み解き、分かりやすい表現で書き綴る。趣味は環境音や、世界中の音楽データを集めて聴くこと。

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