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【吉田栄作独占インタビュー】独立から1年「ついに僕も、スマホでSNSを始めました」

飯塚真紀子在米ジャーナリスト
海や空、太陽は変わらないロサンゼルスのマンハッタンビーチで。写真提供:Dhuta

 毎年、必ず数週間はロサンゼルスで充電している吉田栄作。昨秋も、ロサンゼルスで恒例のライヴイベント「Tokyo Sunday」を行った。

 2018年末に、デビュー以来30年間在籍してきたプロダクションから独立して1年。吉田はどんな1年を送ってきたのか。そして、これからどんな人生を歩むのか? 

 舞台公演「メアリ・スチュアート」(1月27日〜2月16日、世田谷パブリックシアターで全18回公演)を控えて稽古に励む吉田に話をきいた。

SNSでファンと繋がり始めた

ーー独立されて1年以上経ちましたが、どんな1年でしたか?

 独立後、昨春、ドゥータ(Dhuta)という会社を立ち上げました。ドゥータというのはインドの僧侶が首から掛けているお布施を入れる袋のことで、日本で使われている頭陀袋(ズダぶくろ)もこの名前が由来なのです。人生は旅であり、生きていく過程は厳しい修行の連続です。独立後は、ズタ袋1つを背負って旅に出る覚悟で、新たな勝負に出ようという思いからこの社名にしました。

 昨年は歌手デビュー30周年で、6月には「Runners High」というシングルCDをリリースしました。24歳になる時、初めてホノルルでフルマラソンに出たんですが、15キロを走った時、ランナーズ・ハイに陥り、その後の5キロ飛ばしてしまったために、折り返し地点から、歩く人も抜けないくらいペース・ダウンしてしまうという経験をしたんです。完走した後に、感じました。人生は登り坂もあれば下り坂もあり、追い風もあれば向かい風もあるのだと。そんな人生というレースでは、人と闘うのではなく、自分の中の弱さと闘いながら、自分が信じたゴールに向かって走らなければならないのだと。

 そして、50歳になった時、「バカと言われようが、自分が信じたゴールに向かっておまえは飛ばすことができるだろうか?」と自問したんです。迷わず「できる」と心の中でつぶやきました。自分は信じた方向に行くことができる人間なんだと確信しました、ズタ袋1つでね。

毎年ロサンゼルスで行っているライヴイベント“Tokyo Sunday”で熱唱する吉田栄作。筆者撮影。
毎年ロサンゼルスで行っているライヴイベント“Tokyo Sunday”で熱唱する吉田栄作。筆者撮影。

 吉田は9月には、アルバム”We Only Live Once (人生は一度だけ)”をリリース。ズタ袋1つで歩き始めた吉田は、リリースしたCDを売るため、地道な努力を続けた。各地で無料のミニ・ライヴを行いながら、自らCDを売ったのだ。ある時はモールの中で、ある時は祭りのイベントで、ある時はレコード店で、ある時は楽器店で。CD購入者にはサインをした。

 ロサンゼルスにある日系スーパー、ミツワでもライヴを行った。歌い、握手をし、CD1枚1枚に心を込めてサインをしながら売って行く。そこには、エンタテイナーとして1人1人のファンと繋がって行こうとする吉田の謙虚な姿があった。

 フェイスブックインスタグラムも始め、ファンたちと繋がり始めた。

「ついに僕もスマホを持つようになりました」

と吉田ははにかむ。

アメリカのようなエージェント方式に

ーー独立されてから、心情的に変わったことはありますか?

 感謝の気持ちがさらに強くなりました。独立当初、1から10まですべて自分でやらなければならないことの大変さを実感し、あらためて、渡辺プロダクションに対する感謝の気持ちが大きくなりました。

 今は、以前から懇意にしている方にエージェントになっていただき、アメリカで取られているようなエージェント方式で仕事をお願いしています。弊社に入って来た報酬のパーセンテイジを各業務内容に応じてエージェントの方に支払うという契約方式です。今後、日本もエージェント方式に変わって行くかもしれませんね。

ふるさと大使に

 吉田は昨年、故郷である神奈川県秦野市の第1回ふるさと大使に選ばれ、市長とともにオープンカーに乗ってメイン通りをパレードした。今後は、故郷にも恩返しをしたいという。

ーーどんな形で恩返しするのでしょうか?

 例えば、僕が企画をして、秦野市を舞台にした映画を提案するのです。僕はキャリアの第3章として、制作者として、という気持ちもあるんです。先日、ロサンゼルスで、日本でサムライ映画を撮りたいというあるアメリカ人のプロデューサーと出会ったんですが、その映画に制作者として加わり、例えば、秦野市でロケすることで、故郷の素晴らしさを世界に発信できるのではないかと思うのです。東京から東名高速で1時間もあれば着く、湖や山など自然に恵まれた秦野市を世界に紹介したい。

 

 プロデューサーとしての活動もすでに始めている。昨年のホワイトデー、吉田は、行きつけのバーでカクテル・イベントをプロデュースした。吉田が考案した2種のカクテルを、吉田自身がバーテンダーとなって作り、提供したのだ。飲食店を舞台にパフォーマンスをすることもエンターテインメントの1つだと吉田は考える。

真正面から向き合う

ーー半世紀生きてこられたわけですが、今の若者たちを見て、思うことはありますか?

 最近の若者はどうのこうの、ということは言いたくないんですね。僕らも、戦中戦後世代の人たちにはそう言われていたでしょ? そして、戦中戦後世代の人たちは、昭和初期を生きた人々に同じことを言われていたと思います。時代が変わって行くのだから、若者たちも変わって当然。大事なのは、むしろ、我々の世代が若者たちにどんな背中を見せられるか、ということだと思います。

 例えば、我々の世代は若い頃、「いつだって死んでやる」と言い張るようなつっぱり精神を持っていました。その同じ精神で、今も若者たちと向き合えたら、彼らの中に「昭和の親父って、意外にかっこいいじゃないか」と感じる人もいるかもしれない。そんなふうに、我々の世代が若者たちに生き様を見せて真正面から向き合うことが、彼らの生き方に影響を与えるような気がするんです。

 ひと昔前なら、教師や親が、相手を思う気持ちから、殴るという形で真正面から向き合うこともありました。モラル上、今はそれができなくなりましたが、他の形でも、強い思いを示すことができれば、若者たちはそれを真正面から受け止めてくれると思うんです。

変わるロサンゼルス

 吉田は、20年以上前から、毎年2週間から1ヶ月、ロサンゼルスで充電している。吉田にとって、仕事から完全に離れることもできるかけがえのない時間だ。

ーー毎年ロサンゼルスに滞在されて、ロサンゼルスの変化を肌で感じられていることと思います。

 20年前は、ロサンゼルスにはまだ田舎らしさが残っていたんですが、すっかりモダン化されてしまいました。カジュアルに接してくれる夫婦が経営し、気軽に入れる店が高級なレストランに変わったり、以前は格安だったホテルも高級ホテルに経営が変わったりして、目まぐるしく変わっています。ラーメンもチップを加えれば2人で40ドル以上もするし、5ドル前後でランチを食べられるような店はほぼありません。物価高に驚かされています。ホームレスの人々も増え、格差の広がりも感じています。

 それでも、ここには変わらないものがある。それは、海、空、そして太陽です。ロサンゼルスでの数週間をエネルギーにして、これからも走り続けて行きたい。そしていつか、アメリカでの過ごし方を動画など映像という形で、ファンの皆さまにお届けできたらとも考えています。

 今年は、2月21日にブルースアレイジャパンでライヴ「Wonderful Live」を開く他、名古屋(6月13日、ボトムライン)、大阪(6月14日、バナナホール)、東京(6月19日、プレジャープレジャー)でもライヴを開催する吉田。ズタ袋1つで歩き始めたその生き様に、熱い視線が注がれている。

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在米ジャーナリスト

大分県生まれ。早稲田大学卒業。出版社にて編集記者を務めた後、渡米。ロサンゼルスを拠点に、政治、経済、社会、トレンドなどをテーマに、様々なメディアに寄稿している。ノーム・チョムスキー、ロバート・シラー、ジェームズ・ワトソン、ジャレド・ダイアモンド、エズラ・ヴォーゲル、ジム・ロジャーズなど多数の知識人にインタビュー。著書に『9・11の標的をつくった男 天才と差別ー建築家ミノル・ヤマサキの生涯』(講談社刊)、『そしてぼくは銃口を向けた」』、『銃弾の向こう側』、『ある日本人ゲイの告白』(草思社刊)、訳書に『封印された「放射能」の恐怖 フクシマ事故で何人がガンになるのか』(講談社 )がある。

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