ちょっと普通とちがっていい・・・精神科医が教えない「じつは幸せになる思い切った考え方」
ある精神科医がこのYahoo!に「人の意見は聞かなくてよい。自分のことは自分で勝手に決めればよい。そうすれば幸せになる」と書いてありました。まあ、わからなくもありません。わたしも何割かはそんなふうに生きているので。しかし「それができればそもそも悩んでいない」ですよね? 人の意見は聞かなくてよく、自分のことは自分で勝手に決めようと思っても「なぜか」人の意見が気になる……。そんな自分をどうすればいいのか。嗚呼。というかんじで悩んでいませんか?
というわけで、今回は、哲学に依拠した「じつは幸せになる考え方」についてお話したいと思います。
誰にも見られていなくても「見られている」
精神科医が語る「自己啓発」の多くは科学で心を割り切ったものであり、それはとどのつまりタテマエだと私は考えます。人の意見を聞かず、自分のことは自分で勝手に決めれば幸せになる。そんなこと誰だってわかっていることです。だからといって「私は毎晩お酒を飲みたいので近所のスナックに行ってきます。私は私のことを自分で決めますから」と家庭のお母さんが言えばどうなるでしょうか? 結果は誰もが想像するとおりです。家庭崩壊。
あるいは、自責的な性格の人は、「人の意見など聞かなくてよい。自分のことは自分で勝手に決めればよい。そうすれば幸せになります」と言われても、どうしても例えば母親の目が気になってしまい、自分のことを自分で勝手に決めたところでそれを行動に移せないでしょう。いわゆる毒親問題で悩んでいる子どもがそれに当たるでしょう。
ところで、誰かに見られていると思った時点で、物理的に誰もあなたのことを見ていなくても、あなたは見て誰かに見られているのだと言ったのはサルトルだそうです。要するに、他者からまなざされていると意識した時点であなたは、誰かに見られており、誰かの視点にがんじがらめになっており、それゆえなにもできないのです。
人生を成立せしめているもの
私たちの人生はすべからく関係で成っていると言ったのは、かの有名なキルケゴールです。彼の主著『死に至る病』の冒頭にそのことが書かれています。キルケゴールの洞察が慧眼と言われている理由は、他人との関係というより、自分の中にいるもうひとりの自分と「この自分」との関係に言及している点にあると私は思います。なんらか欲求を満たしたいと思う自分――例えば、今夜はお酒を飲みたい。今夜は性行為をしたいと思う自分と、崇高なことを意識してしまう自分との関係、および両者の葛藤。あるいは、真っ当な市民として生きるべきだと考える自分と、崇高なこと、あるいは邪悪なことを考えてしまう自分との関係、および葛藤について、キルケゴールは生涯を賭して考え抜いたのです。
幸せになる思い切った考え方
その哲学の先達の慧眼から導き出される「幸せになる思い切った考え方」とは、例えば、超越的な存在が心の中にいることをまず認めるというものでしょう。うまく言葉にできないけれども、なんらか人間より偉い存在が自分の中にいるのではないか。あるいは、人間より恐ろしい存在が自分の心の中にいるのではないか。そういった考えも含めて、自分の人生を捉え直すこと。
それは例えば、小説に描かれています。村上春樹の小説はほとんどすべてそのことについて言及しているのではないかとすら私は感じます。あるいは中国の残雪(ザン・セツ)も同じでしょう。
私たちの心の中には科学で割り切ることのできないなんらかが宿っており、そのなんらかと「この自分」が絶えず関係している。その関係が何を意味するのか? そう自問自答することによって本当に幸せになる、すなわち他者の人生ではなく自分の人生を生きることができるのではないかと思います。当然、ちょっと「普通」と違った生きざまになりますが、それでいいんじゃないでしょうか。(ひとみしょう/哲学者)