本当の家族のカタチは一体何によってつくられるのか、その本質的な意味を問う映画『沈没家族』
昨年話題となった是枝裕和監督の『万引き家族』は、現代貧困社会ニッポンのある種のゆがみを表現すると同時に、本来、家族という形態のもつべき意味を問い直す映画でした。
今回紹介する映画『沈没家族』も、『万引き家族』同様、家族の意味を問い直す映画ですが、これはフィクションではなく、リアルなドキュメンタリー映画であることが驚きです。そしてこの映画も、現代日本社会の中で、<ともに暮らすこと=家族であること>の意味を改めて問いかけてくる映画です。
映画『沈没家族』は、息子を出産したシングルマザー・加納穂子が、自らの息子の養育を一人で担うのではなく、「共同保育」で育てようと決意し、実行してしまうことから始まる、「ゆるやかな共同家族体」をめぐる物語です。
1995年、東中野のアパートを起点に近所に「共同保育人募集」のビラを巻いた穂子。そして、集ってきた10人ほどの若い男性、幼い子どもをかかえたシングルマザーとともに共同保育をスタートさせます。母親の穂子が夜間の専門学校や昼の仕事で息子である土(つち)の面倒を見られないとき、当番制で土の面倒を見ていくのです。
この共同保育スタイルは、その後、住まいを同じくする共同生活へとその形を変えながら、親子が新しい生活の場を求めて八丈島に移住するまで約8年間続きます。映画タイトル『沈没家族』は、共同生活を営んだ共同アパートに「沈没ハウス」と名付けていたことから命名されたものです。
この映画は、その後15年の歳月を経て、大学生となった息子・土が、大学ゼミの卒業制作として制作を決断し撮影されたドキュメンタリーです。ともに暮らしていた大人たちを久しぶりに土は訪れ、当時の「沈没ハウス」での保育や生活状況を回想してもらいます。本人自身は子どもでもあり、当時の記憶は定かではないのですが、彼らに当時の想い出を語ってもらうことにより、土自身が「共同保育で育てられたボク」自身の意味を問い直す作業に繋がっていきます。そしてその作業は、共同生活により、ともに暮らすことから阻害され、はじき出されてしまった自分の父親のインタビューにまで繋がっていきます。
現在、離婚率の上昇に伴いシングルマザー世帯(母子世帯)の数は123万人世帯まで増加しています。彼女たちのほぼ半数はパート・アルバイトの非正規労働であり、平均年間収入も243万円(母自身の収入)と平均世帯年収を大幅に下回っています。(厚生労働省「平成28 年度全国ひとり親世帯等調査結果」)ひとり親とくにシングルマザーの生き辛さはこうした収入面からも明らかです。『沈没家族』が見せてくれるこの実験的「共同保育」の試みは、こうした生き辛さに対してひとつの風穴を空けようとする試みと言えるでしょう。
実は歴史を遡ると、「子どもを育てるのは親の役割」という考えはある種の固定観念であり、共同幻想であると言えます。近代の家族概念が成立する以前において、子育ての外部化(他人の手にゆだねる)は決して不思議なことではありませんでした。フランスの貴族階級の子育てはメイドが行うのが当然のことでしたし、日本でも江戸時代は地域集団による子育てが一般的でした。
近年の「家族の変容」に伴い、自分の家族をいかに規定するか、が再び問い直されてきています。社会学者の上野千鶴子はそれを「ファミリー・アイデンティティ」と命名し、家族はさまざまな形を取るのが当然と語ります。久保田裕之日大教授(家族社会学)も、「家族」という形式は、<親密圏 >・<ケア圏>・<生活圏> という3つの圏域によって再規定されるべきと語っています。
当事者である土にとって、<親密圏>を形成するのは、血縁である父親でなく、ともに暮らした縁もゆかりのなかった大人たちでした。『沈没家族』は、こうした家族のゆらぎを実際に体現した人生物語として読める極めて興味深い物語なのです。
『沈没家族HP』 http://chinbotsu.com/