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まだまだいた! 側室を迎えず、正室だけを愛し続けた3人の大名

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
山内一豊。(写真:イメージマート)

 世間では相変わらず、浮気の話などが話題となるが、筆者は以前に正室しかいなかった大名を取り上げたことがある。こちら。実はそれ以外にも、側室を迎えず、正室だけを愛し続けた3人の大名がいたので取り上げることにしよう。

◎武田義信(1538~1567)

 天文7年(1538)、武田義信は信玄の嫡男として誕生した。母は、三条公頼の娘である。天文19年(1550)、信玄は今川義元と良好な関係を築くべく、義信の妻に義元の娘を迎えた。その3年後、義信は将軍の足利義輝から「義」の字を与えられ、義信と名乗ったのである。

 永禄8年(1565)、義信は信玄に謀反を起こそうとした嫌疑を掛けられ、東光寺(山梨県甲府市)に幽閉されると、その2年後に亡くなった。享年30。今のところ、義信に側室がいたとの記録はないものの、もっと長生きすれば、迎えた可能性があったかもしれない。

◎伊達輝宗(1544~1585)

 天文13年(1544)、伊達輝宗は晴宗の子として誕生した。母は、岩城重隆の娘である。永禄7年(1564)、輝宗は最上義守と良好な関係を築くべく、妻として義守の娘(義姫)を迎えた。2人の間に誕生したのが、のちに「独眼竜」として恐れられた政宗である。

 天正12年(1584)、輝宗は家督を政宗に譲ったが、その間、側室を迎えた記録を確認できない。また、側室を迎えなかった理由も定かではない。輝宗の死後、義姫は小次郎(政宗の弟)を擁立すべく、政宗を毒殺しようとしたが、それは失敗したのである。

◎山内一豊(1545~1605)

 天文14年(1545)、山内一豊は盛豊の子として誕生した。母は、法秀尼なる女性である。正確な時期は不詳ながら、一豊は千代を妻として迎えた。

 千代の父は、若宮友興(近江浅井氏家臣)といわれているが、ほかにも説はある。千代は持参金(あるいはへそくり)で、一豊が欲しがった馬を購入した「内助の功」の逸話で知られている。

 2人には、後継者たる男子は誕生しなかった。そこで、一豊は忠義(弟の康豊の子)を養子に迎え、家督を継がせることにした。普通であれば、側室を迎えて後継者の誕生を望むのだろうが、一豊は決してそうしなかった。ただ、残念ながら、その辺りの詳しい理由は不明である。

◎まとめ

 多くの武将は側室を迎えて、後継者たる男子だけでなく、女子の誕生も望んだ。子供はたくさんいればいるほど、政略結婚のコマとして使えたからである。

 しかし、一豊のように実子に恵まれなくても側室を迎えなかったのは、親族から養子を迎えたら事足りると考えていたからだろうか。難しい問題である。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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