なぜか側室がいなかった!? 正室だけを愛し続けた3人の戦国武将
大河ドラマ「どうする家康」では、徳川家康の側室が次々と登場した。ところで、生涯にわたって側室を持たず、正室だけを愛し続けた3人の戦国武将を紹介することにしよう。
1.吉川元春(1530~1586)
吉川元春が妻に迎えたのは、熊谷信直の娘・新庄局である。新庄局は、醜女だったという説がある。『陰徳太平記』によると、新庄局はあばた面で白くも頭(頭皮の感染症)だったという。おまけに背中を丸めて歩き、ガニ股だったので、「世にまたとなき悪女」と言われていた。
新庄局は容姿があまりに醜かったので、誰も妻に迎える者がなく、父(信直)の嘆きは察するに余りあるものがあったと伝わる。ところが、元春は「自分が結婚相手に望むのは、信直の嫡女(新庄局)である」と述べ、喜んで妻にしたという。
2.黒田孝高(1546~1604)
黒田孝高が妻に迎えたのは、櫛橋伊定の娘・光(「みつ」あるいは「てる」)である。光は「才徳兼備(才能と容姿に徳を兼ね備えた)」の女性だったという。そんな光に危機が訪れたのは、天正6年(1578)に荒木村重が織田信長に叛旗を翻した事件である。
孝高は村重に翻意を促すため、有岡城(兵庫県伊丹市)に説得に向かったが、逆に捕らえられてしまった。残った家臣は動揺したが、光を推戴して黒田家中が一致団結することでまとまった。光が「才徳兼備」だったというのは、決して嘘ではなかったようだ。
3.前田利長(1562~1614)
前田利長が妻に迎えたのは、織田信長の娘・永姫である。天正10年(1582)6月、永姫は夫の利長とともに本能寺に向かったが、途中で信長が明智光秀に討たれたことを知ったというエピソードがある。そんなこともあったが、2人は仲睦まじい生活を送ったに違いない。
とはいえ、2人の間には、ついに後継者たる男子が産まれなかった。そのような事情もあり、7人もの養女を迎えたが、最後まで男子の誕生を念願していたようだ。結局、利長は養子として弟の利常を迎え、慶長10年(1605)に家督を譲ったのである。