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津波防災の日 11月5日は「津波被害があった日」ではなく「津波被害を軽減できた日」

饒村曜気象予報士
津波(提供:GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート)

津波防災の日

 平成23年(2011年)6月に成立した津波対策推進法により、国民の間に広く津波対策についての理解と関心を深めるようにするため、11月5日が「津波防災の日」となりました。

 これは、安政南海地震で津波が襲った日、嘉永7年11月5日(1854年12月23日)に由来します。

 3ヶ月ほど前の3月11日に発生し、1万8000人以上が死亡した東日本大震災によって検討が始まった法律ではなく、東日本大震災の1年ほど前から、野党の自民・公明両党が衆議院災害対策特別委員会に提案していた法律がもととなっています。

 この時は、与党の民主党が難色をしめし、なかなか審議いりできませんでしたが、東日本大震災で事情が一変、すみやかな与野党合意で新法案が成立しました。

国語読本に載った「稲むらの火」

 安政南海地震では、紀伊国有田郡広村の豪農浜口儀兵衛が機転をきかし、稲むらに火を附けさせたので全村これを目的に駆け出して生命を助かっています。

 この話が、全国に広まったのは東日本大震災の148年前に発生した明治三陸地震がきっかけです。

 明治29年(1896年)6月15日に発生した明治三陸地震により死者が2万2000名を超えるという大災害は日本中の関心事となり、大阪毎日新聞は6月21日に三陸地震津波についての解説を大きく載せています(図1)。

図1 明治三陸地震津波についての新聞記事(明治29年6月21日の大阪毎日新聞)
図1 明治三陸地震津波についての新聞記事(明治29年6月21日の大阪毎日新聞)

 記事の主たるものは、過去日本で発生した津波についてです。

 その中に、安政南海地震の時の浜口儀兵衛のとった行動の話があります(図2)。

図2 浜口儀兵衛のことが書いてある図1の左上部分の拡大
図2 浜口儀兵衛のことが書いてある図1の左上部分の拡大

 神戸クロニクル社(貿易関係の英字新聞社)の小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)記者は、この話に感激し、三陸地震津波の惨状と浜口儀兵衛の話などを組み合わせて「A Living God(生き神様)」を書いています。

 その書き出しは、私たちの神様と違って、日本には多くの神様がおり、その中には、生きている人が神様になっているというものです。

 小泉八雲は松江師範学校(現島根大学)の英語教師時代に結婚した小泉セツのため、日本国籍をとる手続きが行われていた神戸で新聞記者をしており、4ヶ月前に帰化したばかりでした。

 日本のことを書いた英文が少なかったこともあり、「A Living God」は、師範学校での英語授業に使われます。

 和歌山県の南部小学校教員の中井常蔵は、教師を養成する和歌山師範学校時代の授業でこれを学び、「地元にこのような偉人がいたのか」という強い衝撃を受け、「A Living God」をもとに、小学生にもわかりやすい話を作り、文部省の教材募集に応募したのが「燃ゆる稲むら(津波美談)」です。

 そして、採用され、実際に使われた尋常小学校の「国語読本(5学年用)」では「稲むらの火」と改題されました。

 つまり、昭和12年(1937年)10月から約10年間、全国の小学校5年生は、「A Living God」で学んだ先生が作った「稲むらの火」を使った防災教育が行われていたのです。

 ただ、戦後になり、戦前の教育は軍国主義を助長するということで否定され、その結果、「稲むらの火」もなくなっています。

地震・津波・高いところ

 全国の尋常小学校で使われた「稲むらの火」によって、「地震がおきたら津波がくるので、高いところに逃げよ」という考えが多くの日本人に浸透し、その後、多くの人を津波被害から救ったことは事実です。

 昭和39年(1964年)6月16日、私が中学生のときですが、新潟地震を経験し、校舎の屋上から、一階の天井付近にまで達する津波の襲来の一部始終を見ています(図3)。

図3 新潟地震における新潟市の被害状況
図3 新潟地震における新潟市の被害状況

 図3で宮浦中学とある場所が新潟地震発生時に筆者がいた場所、自宅は新潟地方気象台とある場所の近くでした。

 このとき、大人たちは、「稲むらの火」の話をし、「地震が起きたら高い所へ」と口々に言って行動していました。

 今になって思えば、新潟地震による津波で死者がでなかったのは、大人たちが子供の頃に学んだ「稲むらの火」が生きたからではないかと思っています。

 また、東日本大震災の時に「情報がなかったので様子を見ていた」とか、「空港が津波で被害を受けたのは初めて」とか、「津波が川を遡るなんて思わなかった」などと報道された時には、少し違和感をおぼえました。

 中学校の屋上には地震発生直後から近所の住民が次々に上がってきましたし、近くの学校の先生が生徒をつれて周囲より高くなっている線路の上に避難したなどの話、新潟空港が津波被害を受けた話、信濃川を津波が遡ったという話などを聞いていたからです(写真1)。

写真1 新潟地震による信濃川の津波
写真1 新潟地震による信濃川の津波

 なお、写真1で左下の人物は新潟地方気象台の職員で、信濃川の様子を見に出かけ、このあと命辛々気象台の測風塔に登って難を逃れています。

「稲むらの火」の真実

 「地震がおきたら津波がくるので、高いところに逃げよ」は大事なことで、「津波防災の日」は、その再評価です。

 私は、11月5日が「大きな津波被害があった日」ではなく、「津波に対しての対策を始めた日」であり、「津波対策によって被害が大きく軽減できた日」と考えています。

 「稲むらの火」で書かれていることは、物語の性質上、デフォルメされ、主人公を老人にしている点や地震の描写が実話とは違っている点がいくつかあります(表)。

表 実話と「稲村の火」との違い
表 実話と「稲村の火」との違い

 浜口儀兵衛(のちに梧陵と称した)が機転をきかし、稲むらに火をつけさせたので全村民がこれを目的に駆け出して助かったという話よりも、もっとドラマチックで、教訓に満ちています(写真2)。

写真2 浜口梧陵(「浜口梧陵小伝」より)
写真2 浜口梧陵(「浜口梧陵小伝」より)

 モデルとなった浜口儀兵衛は、紀州広村出身で、広村から関東に進出し、銚子で醤油を作って江戸で売ることで財をなしたヤマサ醤油の浜口家をついでいます。

 正月をすごすために広村の戻り、そこで安政南海地震に遭遇した浜口儀兵衛は、若者をつれて稲むらに火をつけてまわり、暗闇の中を逃げ回っている人が高台へ逃げるための目印にしたのです。

 そして、再来するであろう津波に備え、紀州藩の了解をとりつけ、巨額の私財を投じて広村堤防を作っています。

 4年間にわたる土木工事の間、女性や子供を含めた村人を雇用し続け、賃金は日払いにするなど村人を引き留める工夫をして村人の離散を防いでいます。

 浜口の作った堤防には松林の内側にロウソクの材料ともなるハゼの木が植えられ、堤防を保守する人々の手間賃の足しにするというところまで考えていました。(図4)。

図4 広村堤防の概略図
図4 広村堤防の概略図

 安政南海地震から92年後の昭和21年(1946年)12月21日、昭和南海地震が発生し、約30分後に高さ4~5メートルの大津波が未明の広村を襲いましたが、浜口儀兵衛の作った堤防は、村の居住地区の大部分を護っています。

 浜口儀兵衛は、もっと高く評価すべき人物と思います。

図1、図2、図4、表、写真1の出典:饒村曜(平成24年(2012年))、東日本大震災―日本を襲う地震と津波の真相、近代消防社。

図3の出典:「饒村曜(平成24年(2012年))、東日本大震災―日本を襲う地震と津波の真相、近代消防社」に筆者加筆。

写真2の出典:浜口梧陵翁五十年祭協賛会(昭和9年(1934年))、浜口梧陵小伝。

気象予報士

1951年新潟県生まれ。新潟大学理学部卒業後に気象庁に入り、予報官などを経て、1995年阪神大震災のときは神戸海洋気象台予報課長。その後、福井・和歌山・静岡・東京航空地方気象台長など、防災対策先進県で勤務しました。自然災害に対しては、ちょっとした知恵があれば軽減できるのではないかと感じ、台風進路予報の予報円表示など防災情報の発表やその改善のかたわら、わかりやすい著作などを積み重ねてきました。2024年9月新刊『防災気象情報等で使われる100の用語』(近代消防社)という本を出版しました。

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