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北条氏の強さの源泉となった、上野国の支城ネットワークとは

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
(提供:イメージマート)

 全国各地で今も城郭の発掘調査が行われ、国の史跡などに指定されている。非常に喜ばしいことである。関東に覇を唱えた北条氏は、城郭に拠るネットワークを構築し、領国支配を行った。上野国にも支城ネットワークを構築したが、どのようなものなのか考えてみよう。

 後北条氏が領国内に支城ネットワークを築いたことは、よく知られている。戦国大名の城は、軍事的拠点の機能を有しており、同時に領国支配のための政治経済の中心地でもあった。城下には城下町が置かれ、交通路なども整備された。

 そのような理由から、戦国大名は本城を中心として、領国内に支城のネットワークを形成することで、円滑な領国支配したのである。支城の支配を任されたのは、配下の有力な家臣だった。

 天正11年(1583)、松井田城(群馬県安中市)は小諸城(長野県小諸市)を支援するかたちで支城化された。特に、小諸城に兵糧米を運搬するなど、戦争時には欠かせない拠点だった。大道寺政繁は城主に任命されると、城郭の普請を命じられた。

 城下には城下町が整備され、城下への家臣の集住も進められた。松井田城の周辺には、集住した家臣の領が設定され、彼らの軍役負担を支えたのである。

 大道寺氏は松井田城の整備を終えると、さっそく領内で検地を実施した。検地で正確に土地測量を行うことは、単に年貢の徴収を行うためではなく、上野国の在地勢力と北条氏家臣との結びつきをいっそう強化する目的があった。

 松井田城のネットワークに組み込まれたのが、大戸平城(群馬県東吾妻町)である。天正12年(1584)、松井田城の整備の目途がつくと、引き続き大戸平城の普請が進められた。大戸平城の整備を終えると、松井田城と大戸城の間の交通ルートも整い、副次的な効果がもたらされた。

 東上野は北条氏の侵攻によって、館林城(群馬県館林市)と新田金山城(群馬県太田市)が接収された。北条氏がさっそく着手したのが、城領制と城番制である。

 城領制とは新田金山城を支える所領支配であり、城番制とは新田金山城を警護する番制度である。館林城の周辺では北条氏の禁制が交付され、その領国になったことが人々に伝えられた。

 北条氏は、松井田城、箕輪城(群馬県高崎市)、厩橋城(群馬県前橋市)、館林城、新田金山城などを支城として位置付け、領国体制下に編成した。そして、豊臣氏との対決を控えるようになると、国衆をも掌握しようとしたのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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