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『ドラクエ』作曲家・すぎやまこういちが「テレビ」に遺したもの

てれびのスキマライター。テレビっ子
CD『すぎやまこういち ゲーム音楽作品集』(キングレコード)ジャケット写真より

昨年9月30日、敗血症性ショックのため90歳で亡くなったすぎやまこういち(椙山浩一)。

『ドラゴンクエスト』シリーズなどのゲーム音楽の作曲でよく知られるすぎやまだが、『24時間テレビ45』(日本テレビ)内でその半生を描いた「すぎやまこういち物語 ドラゴンクエスト『序曲』知られざる誕生秘話」と題したドラマが本日28日に放送される。すぎやまこういちを演じるのは安田顕だ。

このニュースを聞いたとき、なぜ日本テレビよりも先にフジテレビが彼を主役にドラマ化しなかったのかと思った。なぜなら、すぎやまはフジテレビの社員として数多くの名番組を手掛けていたからだ。しかも、1期生。フジテレビの草創期を支えた人物であり、フジテレビ史はもちろんテレビ史を語る上で欠かせない人物なのだ。

すぎやまこういちの先見の明

元々、すぎやまが就職したのはラジオ局である文化放送だった。子供の頃から玩具を買ってもらうよりもレコードを買ってもらうほうが嬉しいというほどの音楽好きで、中学3年の頃にはお小遣いを貯めて、日響(現:NHK交響楽団)や東宝(現:東京交響楽団)の定期演奏会の会員になりオーケストラを生で聴いていたすぎやまは、音楽学校に行くことも考えたが、音大の入試にパスするほどピアノが弾けず断念し、東京大学に入学。大学卒業後、当時、文化放送の芸能部長だった音楽評論家の有坂愛彦に気に入られ入社した。

フジテレビ開局を1年後に控えた1958年、「もうすぐ開局するフジテレビに行きたい人?」と問われ真っ先に手を挙げた。

文化放送で僕が担当していたのは、音楽を企画に沿ってアレンジして、プロに演奏してもらって生で流すような番組。すごく愛着があったけど制作の状況を見ていると、近い将来、ラジオの音楽は全部皿回し(レコード)でかけることになるだろうと思えてね。 生の音楽にかかわれるのは、これからはテレビだという確信があって、文化放送がフジテレビへの入局志望者を募った時、真っ先に手を挙げた。

(秋場たけお:著『昭和テレビ風雲録』扶桑社より)

フジテレビ入局してすぐ、すぎやまはコマ劇場でクレージー・キャッツを目にした。これはホンモノだ。そうスターの芽を感じ取ったすぎやまはすぐに楽屋へ行きマネージャーに話をつけた。それで生まれたのが『おとなの漫画』だ。フジテレビ開局翌日の1959年3月2日から約5年間、お昼に毎日(途中から月~土曜日)に生放送された。内容はその日の新聞記事をもとにした時事風刺コント。それを演じたのがクレージー・キャッツだったのだ。

脚本を書いていたのはすぎやまの中学時代の同級生で親友だった青島幸男。すぎやまと青島とハナ肇の3人で、その日の朝刊を見てどれをネタにするかを決め、そのままリハーサルをして本番を迎えるという強行軍だった。この番組によりクレージー・キャッツの知名度は飛躍的に高まっていったのだ。

渡邊晋の先見の明

そしてすぎやまの名を轟かせたのが、『ザ・ヒットパレード』だった。1959年6月から1970年まで続き、渡辺プロダクションを「帝国」と呼ばれるまでに引き上げた番組だ。

音楽好きのすぎやまはラジオで人気の音楽ヒットランキング番組をテレビ番組化したいと考えていた。だが、局上層部はこの企画に首を縦に振ることはなかった。

「テレビでは無理だよ。ヒットを出した歌手を揃えるのは不可能だろ。ラジオならレコードをかければいい。けれど、テレビでは画がないとダメなんだ」

すぎやまは「他の歌手に歌わせればいいんです」と食い下がったが上司は「ダメなものはダメ」と引かなかった。制作能力や予算面の問題から実現不可能と判断したのだ。

諦めきれなかったすぎやまが相談に向かったのが渡辺プロ社長の渡邊晋だった。

すぎやまは「最新のアメリカンポップスやジャズを生番組で日本人歌手に日本語で歌わせる」という企画を一通り説明すると、晋は「なるほど、その手があったか」と自身もプロのミュージシャンらしく即賛同した上でこう言った。

「番組の中身はうちが全部、提供するよ」

なんと出演者はもちろん、番組が軌道に乗るまでは制作費・出演料はタダでいいという破格の条件だった。唯一の条件が「企画制作・渡辺プロダクション」とクレジットすること。もちろんこれは日本のテレビ界初めてのことだ(※野地秩嘉:著『渡辺晋物語』マガジンハウスより)。

一見、人情で利の少ない仕事を請け負ったかと思うがそうではない。すぐに番組は視聴率20%を超える人気となると、毎週レギュラー出演している渡辺プロの人気は上がっていくし、新人はこの番組に出て知名度を上げることができた。その上、「渡辺プロ」という名前も売れ、制作費として安定した収益を得ることができた。晋の先見性により「渡辺プロ」はテレビ界において絶大な力を持つことになったのだ。

楽譜が台本

もちろんこの番組は、すぎやまやフジテレビにとっても大きな財産となった。

「音楽を映像化する」というすぎやまの発想と演出は、カメラワークやカット割りも画期的だった。よく曲作りで「曲先」「詞先」などといわれることがあるが「カメラワーク先」でアレンジが決められることもあったという。カットの最後に勢いよくカメラを振るスウィッシュと呼ばれるカメラワークを音楽番組に取り入れたのもこの番組が最初だった。当時のカメラマンだった秋場たけおとの対談でこのように振り返っている。

すぎやま: ドラマには台本があって、セリフに対してのイメージが書き込まれてるよね。 役者のアップとか、ツーショットとか、目線を切り替えてふたりの位置関係をわからせるとか。 僕の解釈だけど、音楽番組の場合はオーケストラのスコア(楽譜)が台本なんだよ。最初の六小節はどの楽器がどんなメロディを奏でているから、どんなカメラワークにしようとか。サックスセッションの上にトランペットのソロが入るから、オーケストラのフルショットからサックスセッションにドリーインするとか、八小節目の三拍目の裏から歌が始まるから、そこでカメラが切り替わって、歌手のアップを撮るとか。それからドラマでは演出家がセリフを足してくれと注文を出すように、僕も『ザ・ヒットパレード』ではドラムセッション越しにトランペットソロの画が欲しいと思うと、編曲家にすぐにそのアレンジを頼んだり。ドラマも音楽番組も作り方の基本は同じだと思うね。

秋場: だからといって、全てをカット割り通りに映してたわけではないですよね。二カメはベースとして動かさなかったとしても、僕は三カメで、よくインサートショットを使ってもらっていました。

すぎやま: 秋場君は被写体の、ある瞬間を切り取るセンスは抜群だった。 しかもやる気も満々だったし。 カメラマンが自由な発想でいい画を撮ってれば、それは使ったほうがいいに決まってる。だから、秋場君のショットをどこで使うかは、いつも念頭に置いていたよ。

秋場: カット割りが決まっていても、自分の感覚を生かしていくことについては、ずいぶん鍛えられました。音楽に対する、カメラマンとしての反射神経は確実に養われましたね。

すぎやま: だけど、カット割りを考えるのは簡単じゃなかったんだよ。カメラを切り替えていろんな画を撮りたいんだけど、ひとつのカメラが撮っている間に別のカメラはレンズを変えて、ピントを合わせなければならない。その時間を考えたり、ケーブルさばきの問題もあったし。歌い手に思い切って寄ってほしいけど、カメラは別のカメラに映されちゃいけないし。まるでパズルを解くみたいだった。秋場君にも過酷な要求をしたことがあったかもしれない(笑)。

秋場: 今のような便利な機械はなかったですし、肉体的に大変だったような気もします。だけど、あの番組はまさしく僕の原点です。さらにいえば、日本の音楽番組の原点でもありますね。

(秋場たけお:著『昭和テレビ風雲録』扶桑社より)

こうした番組作りは『ミュージック・フェア』や『夜のヒットスタジオ』といったフジテレビ伝統の音楽番組に引き継がれていったのだ。

GSブーム

番組では、毎週大量に送られてくるリクエストハガキから曲を決め、歌手にあわせてアレンジや訳詞などをつくっていた。すぎやまはそれも担っており、ここから「和製ポップス」と呼ばれる音楽ジャンルが誕生していき、ヒットを連発。すぎやまが作曲家として独立する礎となった。

今でも使われる『ザ・ヒットパレード』のテーマソングもすぎやま作曲のもの。この番組で披露されたザ・ピーナッツらの楽曲も数多く手掛けた。

さらに自身が命名したザ・タイガーズの楽曲を一手に引き受け、『ザ・ヒットパレード』に起用し、「グールプサウンズ(GS)ブーム」も巻き起こした。それを置き土産のようにフジテレビを退社した。

だが、長髪だという理由だけでNHKに出演できない時代。ライブ会場の入り口で、学校の先生が自分たちの生徒を追い返すというようなことも行われ、GSは「非行」の象徴のように扱われた。加えて「ビートルズのものまね」という批評と相まってGSの音楽的価値を不当に貶めてしまった。

しかしすぎやまはそうした批判を真っ向から否定する。ビートルズはポピュラー音楽の世界にクラシック音楽のエッセンスを持ち込んだ革命だった。「GSはビートルズをまねしたのではなく、ビートルズと同じような方法論でポピュラー音楽を変えた」とすぎやまは論じる(※稲増龍夫:著『クループサウンズ文化論』中央公論新社より)。

GSが歌謡曲化したのではなく、スリーコードの歌謡曲の世界に新しいジャンルを確立し、それまでのビッグバンドで歌の伴奏をする歌謡曲とは違う、バンドとボーカルというフォーマットができあがったのだと。このフォーマットは現在に至るまでポピュラーミュージックの主流となっている。

番組で総合司会を務めていたミッキー・カーチスと殴り合いのケンカをしたというエピソードも残されている。

本番5分前から殴り合いになって、殴ってる最中に「あと3分です」「あと1分です」となって、身支度する間もなく「♪ヒッパレ~、ヒッパレ~」とテーマ曲が始まって、なんてこともあった。

(※ミッキー・カーチス:著『おれと戦争と音楽と』亜紀書房より)

まだ20代同士の2人は番組を良くするためたびたび議論をぶつけていた。それが口論から殴り合いのケンカに発展することもしばしばだった。

ちなみにこの頃からすでにすぎやまはゲームが大好きだった。秋場は「収録日なのに、局舎の中の喫茶『ふじ』に行って、ゲーム(『ビンゴ』)に夢中になって帰ってこないことも」あったと証言している。

そんな血気盛んで遊び心満載だった若きすぎやまこういちがテレビと音楽界に革命をもたらしたのだ。

ライター。テレビっ子

現在『水道橋博士のメルマ旬報』『日刊サイゾー』『週刊SPA!』『日刊ゲンダイ』などにテレビに関するコラムを連載中。著書に戸部田誠名義で『タモリ学 タモリにとって「タモリ」とは何か?』(イースト・プレス)、『有吉弘行のツイッターのフォロワーはなぜ300万人もいるのか 絶望を笑いに変える芸人たちの生き方』、『コントに捧げた内村光良の怒り 続・絶望を笑いに変える芸人たちの生き方』(コア新書)、『1989年のテレビっ子』(双葉社)、『笑福亭鶴瓶論』(新潮社)など。共著で『大人のSMAP論』がある。

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