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今秋復活!『内村プロデュース』は何を変え、何を残したのか

てれびのスキマライター。テレビっ子
TVerの番組ページのサムネイルより。厳選された過去回が限定配信中

2000年から2005年までレギュラー放送され、出演者や視聴者に深く愛された『内村プロデュース』(テレビ朝日)、通称『内P』が、2008年3月の単発SP以来、久々の“復活”を果たすことが発表された。今秋、テレビ朝日で放送されるという。

『内P』は、出演者のほとんどが芸人の、いわゆる「芸人番組」。彼らがロケ中、様々なシチュエーションで大喜利や即興コントを披露し、内村が「10ポイントッ!」などと採点していく番組だった。

この復活に際し、内村光良はこうコメントしている。

内村「だいぶ時間が経って、主人公たちが年を取っちゃってからやる映画の続編ってあるじゃないですか。今回の「復活SP」もそういう感じです。年を取っても若いもんに負けまいとするおじさんたちの生き様を見てほしいですね。私を含め、みんなの刀がどれだけ錆びているのか、もしくは今もまだ錆びていないのか……。とにもかくにも愉快な仲間と再会できるのが楽しみですし、還暦のいい思い出になりそうです(笑)」
(※「お笑いナタリー」2024年7月19日)

映画好きの内村らしいコメントだ。ちなみに内村念願だった商業映画初監督作品『ピーナッツ』のメインキャストの多くは『内P』メンバー。番組での関係性をそのまま活かした物語になっている。

内村光良の変貌

そんな内村にとっても、『内P』は大きなターニングポイントになった番組だった。

今では内村は、“芸人たちの心優しいリーダー”というイメージだが、『内P』以前は、相方の南原清隆から「白い悪魔」と形容されるほど、人見知りで他人に興味がないと言われてていた。飲み会にもほとんど参加せず、参加したとしても隅でマンガを読んでいたというエピソードが残っているほど。

だが、この番組の頃から後輩たちと積極的に絡むようになっていき、『内P』収録後はほぼ毎回打ち上げをしていたという。

本人はお酒が飲めるようになったからと理由を語っているが、実際のところは、“座長”としての自覚と責任感がそうさせたのだろう。コントを愛する男から、コントと芸人を愛する男へと変貌し、芸人たちの“リーダー”になっていったのだ。

レギュラーゲストという不思議な立ち位置で番組に参加したさまぁ~ず・大竹一樹はこう証言している。

大竹「内村さんはものすごく笑いが好きですから、笑いをやってる人を見るのが好きなんじゃないですかね。だから、どんな奴がきても拒否しないんです。パッと目の前で見させられて、つまんない場合もいっぱいあるのに、『ああ、そういうのもあるんだ』と笑ってくれる。『他にはないのか?』って乗せる感じが絶妙なんですよ」
(※『日経エンタテインメント!』2009年4月号)

 だから、『内P』は三村マサカズも言うように「なんとかして内村さんを笑わせたい」と芸人たちが必死になりながら、心底楽しんでいる番組だったのだ。

三村「特別でしたよ、やっぱり。あの番組だけは」
(※『キネマ旬報臨時増刊「kinezo」』 2006年#1)

三村に限らず、『内P』に出ていた芸人たちは異口同音に「特別な番組だった」と振り返る。それは視聴者にとっても同じだ。

番組終了から4年も経った2009年3月22日に行われたイベント「最初で最後の大謝恩会」には、2000名の定員に約7000名もの応募が寄せられた。それほど深く愛されていた番組だった。

失敗が失敗でない番組

バラエティ番組史から見ても『内P』はターニングポイントといえる番組だった。

それまで芸人が数多く出る番組は、ワチャワチャとしている中でもお互いのライバル意識が垣間見えてどこか殺伐としていた(もちろん例外的な番組もあるにはあったが)。ライバルのボケには笑わないというようなことも少なくなかった。

けれど、この番組は芸人同士、「仲がいい」ことを全面に押し出した。以降、それが大きな潮流となっていった。

第3回から出演し、番組最初のレギュラーとなった「溺愛されたいじめられっ子」こと、ふかわりょうは、番組の特徴についてこのように語っている。

ふかわ「失敗が失敗でない番組でもあったんですよ。これ、かなり大事なことだと思うんですけど――。(略)今までのバラエティは、失敗が削ぎ落とされてきたんですよね。だけど、内村さんの前では、失敗が失敗でなかった。それは、内村さんの力なんですよ、やっぱり」
(※『キネマ旬報臨時増刊「kinezo」』 2006年#1)

そうした空気の中、さまぁ~ずも大きく変わっていった。それまでテレビでのさまぁ~ずは、ボケ・ツッコミの役割がハッキリしていた。

だが、『内P』では、本来ツッコミである三村が積極的にボケるようになったのだ。

三村「内村さんに対してどっちもボケる、ボケの争いでしたからね。大竹ともライバルで、番組の中で誰が一番面白いかってだけの話だったから、あれを5年間ぐらいやったおかげでだいぶ意識も変わりました」
(※『Quick Japan』Vol.74)

その結果、三村は「唯一内村と戦える男」と評されるほど、番組のエース格となり、番組を引っ張った。「玉職人」なるキャラも生まれ、さまぁ~ず自体も完全に大ブレイクを果たしたのだ。

その他、TIM・レッド吉田の魅力を引き出したり、「猫男爵」のキャラなどで有吉弘行が再ブレイクの足がかりになったりと、まさに芸人たちを「プロデュース」した番組だったのだ。

なお、TVerTELASAなどで現在、厳選された過去の名作回が期間限定で配信されている。

ライター。テレビっ子

現在『水道橋博士のメルマ旬報』『日刊サイゾー』『週刊SPA!』『日刊ゲンダイ』などにテレビに関するコラムを連載中。著書に戸部田誠名義で『タモリ学 タモリにとって「タモリ」とは何か?』(イースト・プレス)、『有吉弘行のツイッターのフォロワーはなぜ300万人もいるのか 絶望を笑いに変える芸人たちの生き方』、『コントに捧げた内村光良の怒り 続・絶望を笑いに変える芸人たちの生き方』(コア新書)、『1989年のテレビっ子』(双葉社)、『笑福亭鶴瓶論』(新潮社)など。共著で『大人のSMAP論』がある。

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