反政府デモに緊急事態宣言が発令されたタイ――追い詰められたのは誰か
- 反政府デモが高まるタイでは、政府が緊急事態宣言を発令して抗議活動の取り締まりに乗り出した
- 反政府勢力への超法規的な取り締まりが可能となる緊急事態宣言は、タイ政府にとって「伝家の宝刀」である
- しかし、緊急事態宣言の後にとれる手段はほとんど残されていないため、追い詰められているのはむしろタイ政府といえる
タイ政府は反政府デモの高まりに緊急事態を宣言し、全面的に取り締まる構えだが、これによってむしろタイ政府は後がなくなった。
コロナを口実にした取り締まりの限界
反政府デモが続くタイでは15日、緊急事態宣言が発令された。「平和と秩序を保つため」というのが理由だ。
タイの事実上の軍事政権に対する反政府デモは、コロナによる経済停滞と民主化を求める野党が選挙違反を理由に解党されたことをきっかけに、約半年にわたって続いてきた。それにともない、王室批判を禁じた不敬罪が反体制派の取り締まりに利用されていることもあり、それまでタブーとされてきた王室批判にまで発展している。
この間、タイ政府はデモ隊との妥協や対話を拒み続け、プラユット首相は9月、「コロナ対策を優先すべき」という理由で集会を禁じている。
しかし、政府が抑え込もうとすればするほど、反政府デモはむしろ拡大し、これまですでにデモ隊のリーダー格の参加者が20人以上逮捕された。緊急事態宣言により、デモへの超法規的な取り締まりが可能となったことで、タイ政府は本腰を入れて取り締まりに向かうとみられる。
ただし、それはタイ政府にとってもリスクが大きい。いわば伝家の宝刀でもある緊急事態宣言を発令したことで、タイ政府は後がなくなったからだ。
緊急事態宣言の効能
タイの現行憲法では、外国との戦争や大災害などの際、公共の秩序や国家・国民の安全を確保するために、政府は緊急事態を発することができる。この文言そのものは緊急事態宣言が憲法で明文化されているアメリカやフランスのものとほぼ同じで、特に珍しいものではない。
ただし、外国との戦争、大規模なテロ、災害、感染症などはともかく、体制のあり方に不満を表明する運動を鎮圧する目的で緊急事態宣言を発令することは、少なくとも先進国ではほとんどない。
例えば、アメリカではコロナを理由に緊急事態宣言が発令されても、黒人差別への抗議運動(BLM)の取り締まりを目的としたものはない。いかにトランプ大統領がBLMを嫌っていても、国内の特定の政治勢力を念頭に緊急事態宣言を発令することは、表現の自由や思想信条の自由に抵触しかねないだけに、慎重にならざるを得ない。
そのうえ、超法規的な取り締まりを無闇に発動すれば、憲法を中心とする体制そのものへの不信感がむしろ大きくなりかねない。
つまり、緊急事態宣言の発令は政府の身を守る最大の武器であるだけに、それが効果をあげなかった場合、政府の求心力が地に落ちていることを逆にあぶり出すことにもなるのだ。
この観点から今のタイをみると、緊急事態宣言で反政府デモの取り締まりが加速しても、それでタイ政府が望む「公共の秩序」が回復するとは思えない。そこには主に3つの理由がある。
「アメなしでムチだけ」
第一に、今のタイ政府には、力ずくの支配に対する不満を和らげるための措置が難しいことだ。
一般的に、独裁的な体制であっても力ずくの支配だけに頼ることは稀で、多くの場合は経済成長や国民生活の改善など、なんらかの「アメ」で国民の不満を和らげようとする。天安門事件後の中国で政治運動が急速にしぼんでいった大きな原因は、当時の若者がその後、経済成長の恩恵を受け、いわば「守りに入った」ことにあった。
つまり、緊急事態宣言で政治活動を徹底的に抑え込んでも、一人一人の生活がよくなれば、後になって不満が大爆発するリスクは小さい。
ところが、タイの場合、以前にも取り上げたように、2010年代から経済は長期的に低迷してきたが、コロナはこれに拍車をかけている。国際通貨基金(IMF)の最新の見通しによると、タイの成長率は今年-7.1%、来年4.0%と見込まれる。これは周辺のインドネシア(-1.5%、6.1%)やマレーシア(-6.0%、7.8%)などと比べてもダメージが大きい。
「アメとムチ」は開発独裁体制の基本だが、アメのない状態でムチだけ強めても、すでに政府や体制への不信感ではち切れそうになっているタイの若者を止めることは難しいだろう。
ネット規制はどこまで可能か
第二に、緊急事態宣言で政治活動を取り締まるにしても、特にネット空間においてタイ政府には限界がある。
タイの反政府デモはSNSなどを駆使する若者が中心だ。これに対してタイ政府は先月、YouTubeの動画を含む「違法な内容がある」2200以上のウェブサイトを遮断した。ネット規制は、現代の強権支配の常とう手段だ。
しかし、こうしたネット規制をいつまでもタイで続けるのは難しい。
中国やロシアなど、より「本格的な」強権支配の場合、ネット空間での政治活動は日常的に厳しく制限される。しかし、タイ政府の場合、伝統的に西側先進国と友好関係にあり、曲がりなりにも「民主的な政府」を名乗っている以上、ネット規制のコストは高くなりがちだ。
また、タイ政府は「違法なメッセージの発信の規制」に協力しないTwitterやFacebookに法的手段を講じると述べているが、こうした措置は海外投資家の懸念材料ともなるため、経済回復のため少しでも投資を呼び込みたいタイにとって諸刃の剣になる。
つまり、緊急事態宣言で一時的に反政府デモを抑え込んでも、その効果が長続きする見込みは薄い。
調停者の不在
だとすると、いずれタイ政府は反政府デモとなんらかの対話や妥協に向かわざるを得なくなるだろうが、その道のりも厳しいものになるとみられる。これが第三のポイントで、調停者がいないということだ。
当事者同士で行き詰った場合、どの立場からも信頼される調停者の役割が重要になる。カトリック信者の多いラテンアメリカでは1970年代以降、国内の政治対立が激しくなった時、しばしばカトリック教会が間に入って調停の任にあたった。
タイの場合、従来は政治的な対立が高まって暗礁に乗り上げた時、国王が対話を呼びかけ、事態の収拾にあたってきた。
ところが、現在のワチラロンコーン国王は、2016年に崩御した先代プミポン国王と異なり、全ての政治勢力から超然とした立場にない。プラユット首相が王室の取り込みを進め、事実上の軍事政権による支配に利用してきたからだ。
つまり、今のタイで反政府デモ参加者の目からみて、国王は調停者になり得ない。そのため、緊急事態宣言による反政府デモの抑え込みの効果が長続きしないのであれば、プラユット首相は自らの立場を守ろうと何らかの「軟着陸」を目指すだろうが、そのきっかけすら掴むのが難しくなるだろう。
緊急事態宣言で追いつめられたのは、反政府デモよりむしろタイ政府といえるだろう。