働き方改革は先手必勝。在宅勤務導入から8年経った製薬会社の今
政府の調査によると、「勤務先にテレワーク制度等がある」という会社員は14.2%(国土交通省「平成28年度 テレワーク人口実態調査」より)。国は7月24日を「テレワーク・デイ」とし、企業に一斉テレワークの実施を呼びかけるなどしているが、まだまだ様子見という会社も多いだろう。
しかし、かなり早い時期から本格的にテレワークに取り組み、今では無くてはならない制度になった会社もある。
2009年にいち早く在宅勤務制度をスタート
外資系の製薬企業であるMSD株式会社が在宅勤務制度を導入したのは、2009年。特別な理由がなくとも誰もが週1日は在宅勤務が可能、何か事情がある場合は週2日〜毎日の在宅勤務も許可してきた。そして昨年4月、全社員に対して回数制限を撤廃し、今では上長の承認の下、自身の都合に合わせて在宅勤務をする社員が月に500名以上いる(在宅勤務活用部署の社員数は、約1000名)。
他にも、転勤のない地域限定勤務の子会社の設立、ボランティア休暇、事由を問わず年間最大40日休めるディスカバリー休暇、休職中も臨時的な業務が可能な育児休業制度など、新たな制度を次々に取り入れている。
同社が働き方改革にいち早く取り組む狙いと、それがうまくいく理由を探った。
「在宅勤務に特別な理由はいらない」を徹底
2009年当時から、いずれは在宅勤務を始めとする柔軟な働き方が必要になることは見えていた。いずれやらなければならないなら、他社よりも早く始めて上手になっておこう――。MSDの太田直樹氏(取締役執行役員 人事部門統括 兼人事部門長)は、在宅勤務制度を導入したときの考え方をこのように振り返る。
週1日までという制限はあったものの、始めた当初から「理由は問わない」としていたのも先見の明がある。
在宅勤務を試験的にやってみようという時、その対象を育児や介護があるなど、在宅勤務に対して切実なニーズがある社員に限定する組織がとても多い。制約を抱える人の働きづらさを解消する、という意義は大きいのだが、どうしても「特別扱い」に見えてしまい、在宅勤務ができる人とできない人との間に溝が生まれがちだ。また、在宅勤務を経験していない社員が多数だと、「その場にいないメンバーもチームの一員として、うまく連携して仕事をする」という「組織としてのテレワークスキル」が育ちにくい。
MSDが最初から対象者を限定しなかったのは、「なぜ在宅勤務をするのか」という狙いがはっきりしていたからだ。太田氏は「いわゆる福利厚生ではなく、会社がよりイノベーティブになっていく、あるいは生産性が上がる、そのための手段だと考えていた」と語る。
「リーズン・ニュートラル(Reason Neutral)と言いますが、特別な理由は必要ありません。『なんとなく、今日は家で仕事したい』というのであれば、それが立派な理由です」
在宅勤務推進の背景にある人材戦略
在宅勤務ができることと、イノベーションや生産性とは、どのように結びついているのか? そこには今の時代に即した人材戦略がある。
太田氏は、同社が求める人材像を次のように説明する。
「一言でいうと、自律して自分で考えて行動できる社員です。例えば営業の担当が我々の顧客である患者さんなりお医者様なりのところに出ていったら、会社を代表するものとして、その場の状況や、その人にしかわからない文脈での判断や実行を求められるわけですよね。そのときにひとつひとつ判断を仰ぐのではなく、自分で考えてバランスのとれた判断ができる――。我々はそういう人を優秀な人材であると考えています」
このような人材を惹きつけるための戦略として、MSDは「人財育成」「ダイバーシティ&インクルージョン(多様性/個性を活かす)」「企業文化と社員エンゲージメント」の3項目を掲げている。
ひとつ目の「人財育成」を掲げる背景には、会社と社員の関係性の変化がある。
高度成長期時代、会社は雇用の安定や生活の保障を提供し、社員は圧倒的な忠誠心を持って働くという形でギブ・アンド・テイクが成立していた。しかし今の時代、会社が社員の一生を保障するようなことはできない。会社は社員が自律できるように成長の場や自己実現の場を提供し、社員はそれと引き換えに会社に貢献するという、新たなギブ・アンド・テイクの関係を作る必要がある。
「成長に関しては、会社の仕事を通じて得るものが大きいでしょう。でも、自己実現となると必ずしも仕事ばかりではないですよね。それは家庭とか友人とか社会での活動とか、そういうものによって得られるものかもしれない。だから会社というのは、成長の機会を与えるのと同時に、その人が自己実現できるようなスペースというか、フレキシビリティというものを与える必要があるだろうと考えています」と太田氏。
「ダイバーシティ&インクルージョン」も、やはり時代の要請だ。
「働き手の人口がどんどん減っている中で、朝から晩まで働いてくれて、ほとんど休暇も取らず、どこでも転勤してくれる――、そんな企業にとって都合のいい人たちだけを集めて会社を経営できるという環境ではないですよね。そうすると、より多様な人材プールの中から優秀な人、この会社に貢献してくれる人を見つけて、その人たちに働いてもらうということが非常に重要です。
例えば1日5時間とか1週間に4日しか働けない人、1年のうち1ヶ月ぐらい休みたい人、あるいは5年は一生懸命働くけれど、そこから先は分かりませんという人でも、優秀な人であれば我々と一緒に仕事してもらいたい。だから、多様な人材が活躍する会社を作らなきゃならないという意味で、ダイバーシティ&インクルージョンに取り組んでいます」
そして、その多様な人たちに力を発揮してもらうために必要なのが、3つ目の重点項目である「企業文化と社員エンゲージメント」というわけだ。
7年間の活用経験を経て在宅勤務の真の意味が浸透
MSDでは昨年4月に、それまであった「週1回まで」という在宅勤務の制限を解除した。何かきっかけがあっての変更だったのかと尋ねると、「機が熟した」という答えが返ってきた。
「2009年から昨年までの7年間は、言ってみれば日数制限無しの制度に向かうための期間だったわけです。相当じっくり時間をかけたことになりますが(笑)、7年やったことで、在宅勤務の本当の主旨や、それがイノベーティブでクリエイティブな手段になりうるという理解が浸透してきたんです。今では、役員が出るような会議でも、常に誰かは電話で参加したりするようになりました。
また、管理職も含めて在宅勤務を実践してもらう中で、目の前にいない人たちをマネジメントするというスキルも上がってきました。目の前で仕事をしている様子が見えなくても、成果で評価するんだという考え方がしっかり根付いてきたので、週1回という制限をなくすことに踏み切れるようになったと考えています」
なお、同社では2016年以前も、事情がある場合には週2回以上の在宅勤務を許可してきた。例えば、東京本社に所属しながらも、普段は地方都市の自宅で仕事をする社員がいる。また、子どもの学校が学級閉鎖になったとか、自身が怪我をして通勤が困難になったなど、一時的な理由でしばらく在宅勤務、というパターンもあった。
人事部門 人事グループ マネージャーの萩原麻文美氏は、長年に渡って、週2日以上の在宅勤務の申請を受けてきた結果、人事部では「自由に在宅勤務ができることのメリット」についての知見も蓄積されてきたという。
「様々な理由での申請を見ていく中で、本当は理由を問わず、いつでも在宅勤務ができると、社員はすごく助かる、力が発揮しやすくなるのだということが分かってきたんです。例えば、お子さんの授業参観と住宅設備点検の日が、たまたま同じ週に重なってしまうことなどが、あります。そういういざという時に、日数制限のない制度であれば本当に安心ですよね」
萩原氏は、人事制度は社員へのメッセージだと言う。そこで、日数の制限をなくすにあたっては、今一度、在宅勤務の意味を社員に発信した。
「大きくいうと3つありまして、ひとつは理由があるときに使うのではなくて、何も理由がなくても使ってくださいということ。
もうひとつは、生産性やパフォーマンスをもっと意識してくださいということ。上司や同僚の目の前にいないからこそ、最終的な成果というものを、しっかりと自分で出していかないと、仕事ができたということにはなりません。そこがより厳しく問われるようになりますよ、というメッセージを伝えています。
もうひとつは自律性ですね。先ほど太田から、MSDでは自律して考えて行動できる人材を目指している、という話がありましたけれど、そういう人材になるためにも、在宅勤務制度を拡充しました。以前は週2日以上の場合は人事が承認するというやり方でしたが、今は現場に権限移譲し、上長の承認だけで使えるようにしました。上司のいないところで自分のパフォーマンスをしっかり出すためには社員一人ひとりの自律性も求められますし、同時に部下の力量をしっかりと見定めながら在宅勤務をさせるべきかを判断し、チーム全体をマネジメントするという管理職の自律性をも求める制度になっているのです」
これらのメッセージを伝えた結果、制度を変えて以降、在宅勤務を活用する社員の人数も、一人当たりの活用頻度も、より増えているという。
また、優秀で多様な人材を獲得するという意味でも、制限なしの在宅勤務制度が功を奏しているようだ。太田氏は、この制度を魅力に感じて入社してくる人が顕著に増えていると実感している。
「『自分はもっともっと仕事ができると思っているけど、今の会社ではなかなか子育てとの両立ができない。この会社だったら毎日在宅勤務もできると聞いて、絶対ここで働こうと思いました』という人がたくさんいます。決して在宅勤務でラクをしたいというわけではなく、それまで感じていたモヤモヤから解放されて、よりのびのびと働ける環境を求めてここに来た、と話す方が多いですね」
裁量労働制だから「在宅勤務でサボる」問題は発生しない
なお、同社が裁量労働制を採っていることも、在宅勤務制度が活かされやすい要因のひとつのようだ。
MSDでは内勤の社員のほとんどが裁量労働制で、何時に仕事を始めて何時に終わるかということも、個々人が決める。例えば、ヨーロッパの同僚と一緒に仕事を進めている場合、やり取りのピークタイムは夕方4時以降になる。その場合、日本の9時から5時の業務時間に合わせても効率が悪いため、昼間に2時間ほど休憩時間を取ってジムに泳ぎに行く、というような働き方をしている社員もいるそうだ。
「在宅勤務を導入するにあたっては、見えないところでサボるんじゃないか? ということを心配される方が多いと思いますが、7年間の検証期間を経て、私たちの場合はそういう問題は全く起きませんでした」と萩原氏。パフォーマンスさえ上げれば時間の使い方は自由であり、休憩時間を多く取ってその分アウトプットが減るなら、別の時間に挽回するまで、ということだ。
なお、昨今は「高度プロフェッショナル制度」(一部条件を満たす社員については、残業代支払いの対象外とする制度。いわゆる「残業代ゼロ法案」)が議論になっていることから、似たような制度と目される裁量労働制の注目度も上がっている。裁量労働制は「高度プロフェッショナル制度」とは異なり、深夜時間帯や休日の勤務については手当が支払われる(一定の条件を満たす管理職の場合、休日手当はない)。MSDにおいても、勤務時間のチェックはきちんと行い、健康管理のための産業医による面談なども丁寧にやっているとのことだ。
在宅勤務以外の取り組みも着々と
在宅勤務制度の導入、定着に成功したMSDは、他にも様々な働き方改革にチャレンジしている。
例えば、年間10日間まで取得可能なボランティア休暇(有給)がすでに活用されている他、現在は理由を問わずに長期休暇が取れる「ディスカバリー休暇」も試験導入中だ。短期留学や今後のキャリアを考えるための充電期間、夏休みの子どもと一緒に過ごすためなど、様々な目的で10人ほどが利用しているという。
また、育休に関する法律の改定により、育休中に月80時間までなら仕事をしても育児休業給付金が受け取れるようになったことをきっかけに、同社でも育休中に臨時的な業務を認める制度を導入しようとしている。これは、長めの育休を取りたい気持ちはあるものの、顧客との関係や仕事の引き継ぎなどを考えると逡巡してしまうという男性社員を後押しするものになるし、女性に関しても、育休からの復帰に向けて仕事の勘を取り戻すのに役立つだろう。
もうひとつ、同社の営業は全国転勤の可能性がある仕事だが、地域限定で勤務ができる販促子会社「日本MSD」を2014年に設立。社員は自身のライフステージの変化に応じ、MSDと日本MSDの間を行き来できるようにした。今、地域限定正社員制度を導入する会社は増えているが、別会社にするケースは珍しい。その理由を聞くと、「新しいことにいち早く取り組めるように」だという。地域限定だけでなく様々な新しい制度を試すのに、本体のMSDでは難しいことも小規模(現在は社員数90名程度)な子会社であれば機動的にチャレンジしていける、との目論見があるのだ。この話からも、「優秀な人材に選ばれる」という目的に向かって先んじて変化していく、同社の一貫した姿勢が感じられた。