【光る君へ】藤原道長が摂政や関白にならず、内覧の座にとどまった理由
大河ドラマ「光る君へ」では、主人公の「まひろ」(紫式部)に負けないくらい登場しているのが藤原道長である。道長は甥の伊周との政争に勝利したが、あえて関白にならず、内覧の座にとどまった。その理由について考えることにしよう。
長徳元年(995)、藤原道隆・道兼兄弟が相次いで没すると、後継者の座を巡って伊周(道隆の子)と道長(道隆の弟)が争い、道長が勝利した。翌年の長徳の変で、伊周は失脚したのである。
勝利した道長は、摂政や関白になるのではなく、内覧の座にとどまった。内覧とは天皇に奏上する文書、天皇が裁可する文書を内見する職務で、摂政や関白が不在のとき、大臣や納言級の者が任じられた。
ちなみに道長が摂政になったのは、長和5年(1016)に娘の彰子が産んだ後一条天皇が即位したときである。しかし、その1年後には、摂政の職を辞した。
道長の日記は『御堂関白記』といわれているが、道長が関白になったことはない。もともと『御堂関白記』は『入道殿御暦』、『御堂御日記』、『法成寺入道左大臣記』などと称されていたが、江戸時代に近衛家煕が『御堂関白記』と題したので、以後そう呼ばれるようになった。
一条天皇が道長を内覧にしたのは、自らの政治姿勢を積極的に打ち出そうとしたからだといわれている。一条天皇は自らの意思により、新制と称される法令(租税を期限内に納入することなど)を発布した。
永延元年(987)に一条天皇が即位すると、摂政を務めた兼家は新制13ヵ条を発布した。しかし、長保年間に一条天皇が発布した新制は、自身の意欲的な政治姿勢のもとで発布されたと評価されている。
一方で、道長にもメリットがあった。大臣が摂政や関白になった場合、普通は大臣の職務を行わなかった。しかし、道長は内覧としての役割を果たしつつ、左大臣として太政官の政務を統括した。
つまり、道長は内覧として実質的に関白や摂政の役割を果たしつつ、左大臣としての職務を全うし、政治を主導しようと考えたといわれている。こうして道長は文書を内見する一方で、陣定の上卿といった左大臣としての役割も行ったのである。
主要参考文献
佐々木恵介『天皇の歴史03 天皇と摂政・関白』(講談社、2011年)。※2018年に講談社学術文庫から再刊。
倉本一宏『藤原氏 権力中枢の一族』(中公新書、2017年)