輸出に影響した明治26年の大霜害から「お金を出しあっても気象情報入手」へ
霜による災害は桜のシーズンが終わってから
晩秋から冬と3月は、霜が良くおります。ただ、3月は霜が降りても被害となると、それほど大きくなりません。冬の間は、植物の芽が硬い殻などによって寒さから守られていますので、霜が降りても被害が出ません。
八十八夜(立春から数えて88日目の夜で今年は5月2日)がすぎた5月の霜は、植物が生育したあとでの霜であり、大災害をもたらします。このため「八十八夜の別れ霜」とか「八十八夜の泣き霜」という言葉が言い伝えられてきました。
霜注意報は、霜によって農作物に著しい被害が予想される場合に、その旨を注意して行う予報のことです。冬場は霜が降りても、植物が生育していないため霜注意報は発表しません。霜注意報は、気象庁が自治体等と協議して発表期間を決めています。
例えば、東京都千代田区では4月10日から5月15日で最低気温が2度以下、大阪市は4月15日以降の晩霜で最低気温が4度以下、福岡市は3月15日からの晩霜で最低気温が3度以下というのが、霜注意報の発表期間です。
大雑把に言えば、桜のシーズンの終わりは、霜による災害の始まりになります。
輸出に痛手の大霜害
明治26年(1893年)5月6日は、優勢な高気圧に覆われて全国的に晴れ、北風が吹いて気温が低下したため、中部地方から東北にかけての広い範囲で霜がおりています。
中央気象台(現在の気象庁)が作成した明治26年(1893年)5月6日6時の天気図で、本州にある等値線の770は、「気圧が770ミリ水銀柱(1027ヘクトパスカル)」の意味です。優勢な高気圧に覆われて晴れていることを示しています(図1)。
官報(明治26年(1893年)5月8日)には、中央気象台が全国気象摘要として、「温度ハ大ニ平均度以下ヲ呈シテ鹿児島ハ十五度、長野ハ一度ヲ報セリ」と記しています。
このときならぬ降霜で、各地で霜害が発生し、特に埼玉県と群馬県では桑と茶に大きな被害が発生しました。
この頃は、絹糸とお茶が輸出の花形で、葉が真っ黒になった霜害は深刻な影響を与えています。
気象情報の入手を
霜が降りることがわかれば、霜害を防ぐ手段を講じることで被害を軽減できることは、一部の地方では分かっていました。
そこで、霜害被害者を中心に霜害予防組合が結成され、お金を出し合って中央気象台が天気予報や暴風警報を発表したときは、すみやかに電報で知らせてもらうことにしています。降霜の恐れがある時には、ワラを焼き、その煙で霜害を防ぐためです。
ただ、当時の会計法では、このような金銭のやりとりはできなかったため、中央気象台の中にあった大日本気象学会(現在の日本気象学会)が代行して、この業務を行っています。
中央気象台がこのようなサービスを始めた経緯については不詳ですが、個人的には、日本の花形輸出産業に対して、日本政府あげての支援があったのではないかと考えています。
ラジオが登場し、気象情報がすみやかに全国津々浦々まで届く時代がくる前の時代の話です。
霜害を防ぐには
霜害を防ぐには、霜の降りやすい窪地をさけて農作物を栽培したり、防霜林を植えるなどの恒久対策があります。これは、冷たい空気は重いために地面の低い所を通って窪地などにあつまってくることから、霜の一番降りやすい窪地を避けて作物を栽培する、あるいは、林で冷たい空気の流れを遮るといった対策です。
また、霜が予想されるときには、次のような応急対策をとることによって被害を最小限にすることができます。このため、霜がおりるかどうかの予想は、霜害を減らすことにとって重要な情報です。
霜害を防ぐ応急対策
かん水法・散水法・湛水法
(水をまいて地面の熱的性質を変え、接地層の温度を高め放射冷却を弱める。苗代には水をたたえる。)
送風法
(人工的に送風して、高所にある比較的暖かい空気を地表近くの冷えた空気と混合させ、作物の体温の低下を防ぐ。)
被覆法・燻煙法・煙霧法
(寒冷紗・むしろ・ビニールテントなどで作物を覆い、また古タイヤなどを燃やした煙や水の細粒で人工的に雲や霧をつくり、作物の上になびかせて気温の低下を防ぐ。)
加熱法・燃焼法
(石油・重油・古タイヤ・練炭などを燃焼させ、気温と作物の体温の低下を防ぐ。)
氷結法
(作物に水をかけ、氷になるときの潜熱を利用して作物や地面付近の温度を0度近くに保つ。)
輸出の柱は絹糸とお茶に加えて銅
明治初期、必要な外貨の獲得の第一位は絹糸、第二位はお茶、第三位は銅でした。
中央気象台は、絹糸とお茶に対しては、気候観測を行うことで生産の適地を探したり、気象情報を提供して霜害を減少させることに協力していますが、増強が進む銅生産に対しても、気象情報を提供することで精錬過程で出てくる煙対策(公害防止)に協力しています。
中央気象台が発表する天気予報や暴風警報を大日本気象学会が知らせるという業務を始めたということが記載されている官報には、愛媛県新居浜に気象警報を伝える信号標識が設置されたという記事も載っていますが、この頃、別子銅山精錬所の煙害が問題になりはじめていました(図2)。
明治初期、日本は貪欲に海外の技術を取り入れ、官民をあげて近代化を進めていました。気象事業も例外ではありません。
図1の出典:デジタル台風(国立情報学研究所のホームページ)。
図2の出典:官報(明治26年(1893年)5月25日)。