濃姫は夫の織田信長と本能寺で運命をともにしたのだろうか?
愛し合って夫婦になっても、どちらかが先に逝くのが世のならいである。しかし、戦国大名は戦いに負けると、夫婦ともども運命をともにすることが珍しくなかった。一説によると、織田信長は本能寺で妻の濃姫と運命をともにしたというが、それが事実なのか考えてみよう。
織田信長の妻の濃姫は、斎藤道三の娘である。2人の結婚は、もちろん政略結婚だった。とはいえ、濃姫は『信長公記』に姿を見せる程度で、その生涯はわからないことだらけである。むろん、2人がどのような夫婦生活を送ったのかもわからない。
天正10年(1582)、明智光秀は信長が滞在する本能寺を襲撃した(本能寺の変)。攻防の模様は、『信長公記』に詳しく記されており、信長は最終的に切腹して果てた。
一説によると、濃姫は信長とともに本能寺で運命をともにしたという。テレビドラマの時代劇では、濃姫が長刀を振るって、信長とともに明智勢と戦い、最期は紅蓮の炎に包まれて運命をともにするシーンがよく描かれている。
濃姫が信長とともに運命をともにしたというのは、もちろんそれなりの根拠があってのことである。湯浅常山『常山紀談』、武内確斎『絵本太閤記』などの江戸時代に成立した史料には、それと思しき記述がある。
信長が本能寺で自害する直前、女房(奥女中)だった「お能」なる女性が登場し、長刀を振るって明智勢と戦ったという。しかし、衆寡敵せず、「お能」は明智勢に討たれたのである。たしかに「お能」と濃姫は「のう」と読むのが一致しているが、2人は同一人物なのだろうか。
『織田信雄分限帳』は、天正13年(1585)頃の信雄の家臣団構成を記したものだが、そこには「大方殿」つまり濃姫に対して、如意郷のうちから500貫文を与えたと記録されている。どうやら濃姫は、信長と運命を共にしなかったようである。
その後の濃姫の動向はわからないが、江戸時代中期に成立した『泰巌相公縁会名簿』なる史料には、信長の妻として養華院なる女性の名を載せ、慶長17年(1612)7月9日に亡くなったと記す。
しかし、養華院なる女性が本当に濃姫なのかは、疑問がないわけではなく、決定打とはいえないようである。今後のたしかな新しい史料の出現を待つしかなさそうだ。