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ルポ「ヨルダン川西岸」(第一部「ヨルダン渓谷」)・3

土井敏邦ジャーナリスト
ヨルダン渓谷の入植地で働くパレスチナ人とタイ人(筆者撮影/以下も同様)

 【ルポ「ヨルダン川西岸」】

〈第一部「ヨルダン渓谷〉・3

【ヨルダン渓谷のユダヤ人入植地】

 2020年春現在で、ヨルダン渓谷には30のユダヤ人入植地があり、1万2千人の入植者が住んでいるといわれる。その入植地で地元のパレスチナ人たちが労働者として雇用されているのは、以前からよく知られていた。

 2007年4月、ヨルダン渓谷最大の村、ジフトリックに近いユダヤ人入植地「アルガマン」を訪ねた。1973年に建設が始まったが、2007年当時、40家族で約200人が暮らしていた。

 ハイム・ミズラヒ(当時・代表)、が「アルガマン」の成り立ちをこう語った。

入植地「アルガマン」のハイム・ミズラヒ代表(当時)
入植地「アルガマン」のハイム・ミズラヒ代表(当時)

 「イスラエル軍の開発部隊『ナハル』によって建設されました。完成すると、政府の外郭組織『ソフヌート』がイスラエル国内から入植者を公募しました。土地は買ったのではありません。『ソフヌート』が与えてくれたのです。80ドナム(8ヘクタール)の土地と水と共にです」

 「アルガマン」は農業入植地である。居住区は農地から離れた小高い丘にある。そこから農地のビニールハウス群が立ち並ぶ広大な農地が見下ろせる。

 

 その農地の一角にある細ねぎとバジリコを栽培しているある入植者の加工工場を訪ねた。

 収穫したばかりの細ねぎを出荷準備する工場だった。一握りできるほどの細ねぎの束を紐で縛り、包丁で根本を切りそろえる。それを「アグレスコ」のロゴが入った段ボールに箱詰めしていく。「アグレスコ」とはイスラエルの大手農作物輸出業社である。

 その作業をしているのはタイ人の男女、それに地元のパレスチナ人の男女である。

細ねぎの加工工場で働くパレスチナ人
細ねぎの加工工場で働くパレスチナ人

 「タイ人とパレスチナ人との何か違いがありますか」と訊くと、農場主は、「いいえ。同じくいい働き手です。両方とも忠誠心が高いです。彼らは自分の農場のように感じていて 自主的に働きます。賃金も同じです。法律で決められています。タイ人には宿泊施設など余分の経費がかかりますが、彼らが銀行から得る賃金は同じです」と答えた。

 「タイ人労働者をもっと増やしたいですか?外国人労働者の人数は政府が決めていると聞きましたが」と訊くと、「もっと雇えたら、うれしいです」と答えた。

 代表のハイム・ミズラヒが、「アルガマン」入植地共有のナツメヤシ畑へ案内した。100ドナム(10ヘクタール)の広大な畑で、生産したナツメヤシは、ドイツや英国、イタリアなどヨーロッパの国々に輸出されるという。

 木にたわわに実が垂れ下がっているこのナツメヤシの畑で、消毒などの作業をしているのはパレスチナ人の青年たちである。彼らに仕事の指示を出し、実際に畑を管理するのは、入植者ではなく、同じ地元のパレスチナ人だった。もう18年ここで働いているという。

「いい仕事ですか?」と訊くと、「はい!」と笑顔で答えた。

入植地のナツメヤシ畑で消毒の仕事をするパレスチナ人
入植地のナツメヤシ畑で消毒の仕事をするパレスチナ人

 「パレスチナ人の指導者たちは、入植地の土地はパレスチナ人のもので、『パレスチナ国家』の一部になる土地だと言っていますが?」

と私はストレートにハイム・ミズラヒに訊いた。

 「自分たちで、ここに来たわけではありません。イスラエル政府が私たちをここに連れてきたのです。その政府は『去れ』と言うことができます。もし政府が我々に『去れ』と言ったら、私は去ります。『私は』です。他の人は知りませんが」

 「ただ、私たちがここに来て生活を始めた頃、周辺のパレスチナ人たちがどういう暮らしをしていたか知っていますか。彼らには電気も水もなかった。ちゃんとした家さえもなかったんです。だから彼らにとって、私たちが来てからこの20年間で200年も飛び越えたようなものです。私たちがいなかったら、こんなに成長しなかったに違いありません」

【入植地で働く理由】

 ヨルダン渓谷最大の村、ジフトリックの人口は、2007年当時7000人ほどだった。しかし遊牧が盛んなこの村では夏場は2000人ほど減少した。

 ジフトリック村は、キュウリやナス、トマトなど野菜栽培で有名である。

 村長(当時)のアブ・イーサ(サバハ・マルズーク)も農家である。ナス畑に案内された。4ドナム(0.4ヘクタール)の畑に、すでに実をつけたナスの畝が何列も整然と連なっている。アブ・イーサによれば、このナス畑から得られる収益は1万から1万5千シェケル(29〜44万円)ほど、それから、人件費、畝に敷くビニール代、灌漑用のポンプの燃料代などを差し引くと、

6,000シェケル(約17万円)ほどの純益にしかならない。

アブ・イーサ村長(当時)のナス畑
アブ・イーサ村長(当時)のナス畑

 長男イーサが野菜を村から40キロほど離れた西岸北部の都市ナブルスの野菜市場に出荷するのに同行した。

 イーサは早朝、古いフォルクスワーゲンのバンに乗って村の農家を回り、農家が出荷する野菜を集めて回る。集め終わると、1時間ほど車で走る。しかしヨルダン渓谷を出る直前に、イスラエル軍の「ハムラ検問所」を通過しなければならない。ここでは厳しいIDチェックや荷物検査を受ける。運が悪ければ、長時間足止めされることもある。幸い、その日は、数分でチェックが終わった。

 ナブルス市内の市場には、西岸北部の各地の農村で生産された野菜が運びこまれる。しかし目立つのは、イスラエル産の農産物だ。とりわけ果物は大半がイスラエル産である。

ナブルスの野菜市場には西岸北部各地から野菜が集まってくるが、果物など大半がイスラエル産だ。
ナブルスの野菜市場には西岸北部各地から野菜が集まってくるが、果物など大半がイスラエル産だ。

 「市場にある農産物の70%がイスラエル産ですよ」と、市場の取引を担当する男性が言った。西岸の農民は、イスラエル当局による水使用の制限で水不足に苦しみ、移動制限による農産物の出荷の障害など様々な困難を乗り越えなければならない。

 一方、大量生産で安価なイスラエル国内や西岸内の入植地からの農産物は、水不足もなく、また移動制限もなく自由にパレスチナの市場になだれ込んでくる。そのためにパレスチナ人の農産物はイスラエル産に太刀打ちできなくなる。

 収入の安定しないヨルダン渓谷の農民が、生活を支える現金収入のために選ぶのが、ユダヤ人入植地での労働である。

 アブ・イーサの三男、オーデ・マルズークも農業の農閑期に、近くの入植地で働いている。

「土地を奪ったイスラエル人の中で働く抵抗はありながら、生きていくために入植地で働くアブ・イーサの三男オーデ
「土地を奪ったイスラエル人の中で働く抵抗はありながら、生きていくために入植地で働くアブ・イーサの三男オーデ

 ぶどうやナツメヤシの農場で1日8時間の労働、日給は60シェケル(約1,700円)だ。

 同じ仕事場で働くイスラエル人とは対立はほとんどないが、オーデは自分との給与の差に衝撃を受けた。それでも入植地で働く以外に現金収入の道はない。

 「もし畑での仕事で入植地より稼ぐことができれば敢えて入植地で働きませんよ」と言うオーデも、夏場は畑の仕事もなく、農業収入だけは生活が難しい。

 「もちろん自分たちの土地を奪って、住みついているイスラエル人に憤りは感じますよ。しかしここでは唯一の現金収入の機会は入植地なのです。何か抵抗しようとすれば、逮捕されたり、罰金を取られたりして おしまいでしょう」

 7ヵ月前にジフトリック村の村会議員に選ばれたアハマド・モアラも農民だが、今は入植地で働いている。二年制のカレッジでコンピューターを学んだが、卒業しても、ヨルダン渓谷ではそれを生かす職はなかった。10年間、農業をやってきた。時には年に5,000から8,000シェケル(14万4千〜23万円)の収益がある時もあったが、全く収入のない年もあった。そんな中、確実に収入が入ってくるのは、ユダヤ人入植地での労働だった。

村会議員でありながら、農業では生活できず、入植地で働くアハマド・モアラ
村会議員でありながら、農業では生活できず、入植地で働くアハマド・モアラ

 ナツメヤシの収穫の仕事で、早朝6時から午後2時までの8時間労働で、日当75シェケル(約2,200円)。同じ仕事でもイスラエル人なら、3倍近い200〜250シェケルは得られるという。

 「自分の土地やパレスチナ人の企業で働けたら、もっと幸せでしょうが・・・」とアハマドは言った。

 ジフトリック村の学校近くの空き地に、ビニールシートで覆われたテントが並んでいた。近くにいる二人の青年に話を聞くと、そのテントで暮らしているという。青年たちがテントへ案内してくれた。

 中に入ると、窓のないテントの中はムッとする暑さである。畳20畳ほど土間の半分ほどに古びたビニール製の敷物が敷かれ、その上にマットレスが右側に4つ、左側に3つ並べられている。そのどれにも、いま人が飛び起きたばかりのように枕とぐしゃくしゃの毛布が無造作に投げ出されている。その「寝場所」の反対側の隅の土間には簀の子が敷かれ、その先に水道がある。横には野菜収穫に使うコンテナ。その中に鍋類や食器、さらにいくつかの野菜が入れられている。簀の子の手前の土間には、先にガスコンロがついたプロパンガスのボンベ。ここは「台所」だ。

入植地で働くために西岸の他の街から来て、テントで集団生活をする青年たち。
入植地で働くために西岸の他の街から来て、テントで集団生活をする青年たち。

 二人の青年は「近くの入植地で働いている」と言った。ここはヨルダン川西岸各地から入植地で働くためにやってきた青年たちの「宿舎」だった。

 青年の一人は、西岸北部の街ジェニンからやってきたと言う。今は入植地のぶどう畑とナツメヤシ畑で働いていて、午前6時から12時までの6時間労働、日当は50〜60シェケル(約1,500〜1,700円)、3月から7月まで働く予定だ。

 地元には青年たちが働ける場所がほとんどなく、あっても賃金が低くため、比較的に給与が高い入植地の農場や工場で働くためにやってきたと青年は言った。

 現在もイスラエルの占領下にあるヨルダン渓谷では、農業に不可欠な水資源や市場が厳しく制限される。そのため農業だけでは生活できない住民たちはユダヤ人入植地での仕事に依存せざるをえない。

 ヨルダン渓谷のパレスチナ人住民のイスラエル経済への従属化は年々強まっていた。(続く)

 (注・写真はすべて筆者撮影)

ジャーナリスト

1953年、佐賀県生まれ。1985年より30数年、断続的にパレスチナ・イスラエルの現地取材。2009年4月、ドキュメンタリー映像シリーズ『届かぬ声―パレスチナ・占領と生きる人びと』全4部作を完成、その4部の『沈黙を破る』は、2009年11月、第9回石橋湛山記念・早稲田ジャーナリズム大賞。2016年に『ガザに生きる』(全5部作)で大同生命地域研究特別賞を受賞。主な書著に『アメリカのユダヤ人』(岩波新書)、『「和平合意」とパレスチナ』(朝日選書)、『パレスチナの声、イスラエルの声』『沈黙を破る』(以上、岩波書店)など多数。

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