明暗を分けた紫式部と清少納言。その運命の分かれ道とは?
今回の大河ドラマ「光る君へ」では、紫式部と藤原彰子との非常に親しげな様子が描かれていた。紫式部と清少納言は明暗を分けたが、その運命の分かれ道は、どこにあったのだろうか?
随筆『枕草子』で知られる清少納言。役を演じているのは、ファーストサマーウイカさん。当初は強い存在感を示していたが、最近はあまり見かけなくなった。いったい何があったのだろうか。
正暦4年(993)の冬頃、清少納言は一条天皇の中宮・藤原定子に仕えた。言うまでもないが、この頃は藤原道隆(定子の父)の全盛期であり、定子に仕えることは大変な名誉だった。清少納言自身も非常に学識が高く、定子から気に入られたことだろう。
しかし、道隆が亡くなり、長徳の変で伊周・隆家兄弟(道隆の子)が没落すると、定子はショックのあまり、自ら髪を切った。これが出家とみなされ、定子の立場は不安定になった。
長保2年(1000)2月、定子は大変な難産の末に第二皇女・媄子内親王を出産したが、直後に亡くなったのである。それからしばらくして、清少納言は宮仕えを辞したと考えられる。一説によると、その後の清少納言は、定子の遺児(媄子内親王、脩子内親王)を養育したという(諸説あり)。
一方の紫式部は、寛弘2年(1005)の末頃から翌年の年始の頃、藤原彰子に仕えた。彰子は一条天皇の中宮であり、藤原道長の娘でもあった。当時、道長は一条天皇の内覧を務めており、大きな権勢を持っていた。
紫式部は和歌や漢学に通じていたので、彰子の家庭教師役を担当したとされている。そして、道長からの依頼もあり、『源氏物語』の執筆をすることになった。当時、非常に高価だった紙を与えられたのは、その証ではないかといわれている。
寛弘5年(1008)、彰子は難産の末に敦成親王(のちの後一条天皇)を出産した。後継者たる男子を産んだので、道長の喜びは一入だったに違いない。これにより、道長の一族の繁栄は約束されたようなものだった。
清少納言は、最初こそ勢いのある中関白家(道隆の系統)のもとにあり、それなりに処遇されていただろうが、没落後は出仕を辞することになった。
逆に、紫式部は彰子に仕えることにより、道長の庇護を受けて『源氏物語』の執筆をした。仕える相手によって、2人は明暗を分けたのである。