ロシア映画を排除せず。サン・セバスティアン映画祭の決定は正しいのか?
3月11日、映画祭事務局から公式声明が送られてきた。ウクライナに対するロシアの侵略戦争を受けての対応に関するものだった。9月の開催に向けて出品作のセレクションが始まっている。そこで起こり得る避けられない議論について、映画祭としての立場を表明するものだった。
■国籍縛りは反戦映画も締め出す
「当映画祭では作品は個々に評価され、国籍を問題としない。たとえその作品が、人権を尊重しない政府を持つ国のものであっても。今の暴力的な状況下でも、この方針を貫くことした」
つまり、ロシア映画も、ロシア人監督、俳優、スタッフが参加している作品も排除しない、という意味だ。
念のために言うが、侵略戦争は「国際法に違反する」、「許し難い暴挙」、「人類的悲劇」で「ウクライナ国民に連帯を表明する」とした上での、非排除決定である。
なぜか?
「ロシアには戦争と政府に反対し闘っている人々もいる」、「反体制派の人々の声を届けるのも当映画祭の使命」だからだ。
つまり、ロシア映画を一律排除すれば、反戦作品も排除しかねない。よって内容で判断される、と。
例えば、ロシアの国威発揚・侵略正当化作品が選出されるか、と言えばノーである。人権侵害を正当化する作品は駄目だが、人権侵害を告発する作品はOKということだ。
■人権尊重のメッセージはあるか?
国籍で選別せず内容で選別し、そのフィルターに人権という観点を使う、という決定を私は支持する。
反体制や反戦をアピールするのに芸術という手段を使う人は多く、弾圧国でこそ反体制活動や反戦活動は盛んなのだから。
「フィルターに人権という観点を使う」というのはサン・セバスティアン映画祭の判断であり、それも良いだろう。いずれポリティカリーコレクトな作品ばかりにならないか、という懸念もあるが、見守りたいと思う。
この懸念については、
に書いた。
芸術には反道徳、反社会的、不健全なものもある。
ポリティカリーコレクトを打破するのも芸術の力であり、いずれ映画の力も借りてポリティカリーコレクトを強要する風潮を打破する時が来るだろう、と予感している。
例えば、ロシアの国威発揚・侵略正当化作品があるのなら、見てみたい。
滑稽さを笑うのか、反論するのか、それとも感化されるのか。サン・セバスティアン映画祭では門前払いだが、例えばタブーにとらわれないシッチェス映画祭ではOKかも……。
昔、大学の授業で『國民の創生』を見せられた時のことを思い出す。
糾弾するにしても見ないと始まらない、見ないと反面教師にすらならない、と思うからだ。
■サッカーの排除基準は明確
サッカーについても書いているので、最後にスポーツ界のロシア排除についても一言。
FIFAのロシア代表排除には文句はない。国旗付のユニフォームで試合前に国歌斉唱があるW杯というのは、ほぼ常に国威発揚の場だから。政治とスポーツは混同されるべきではないが、現実には混同されている。
UEFAのロシアクラブ排除も、体制とクラブとの関係の深さを考えると仕方がない。たとえ、ロシア人選手の中にさえ反戦派がいたとしても。可哀想だけど。
では、他国のリーグからロシア人選手を排除すべきか? 例えばバレンシアのチェリシェフをプレー禁止にすべきか? これはノー。クラブにロシア色はまったくなく、彼はロシアを背負ってプレーしているわけではないから。
サッカーはチームスポーツだから比較的線引きはし易い。
■個人競技の選手は国を背負っている?
では、個人競技はどうか? 国旗付のユニフォームで試合前に国歌斉唱がある大会であれば一律アウトでいいだろう。テニスであれば国別対抗のデビスカップは排除でいいとして、そうでない個人で参加するトーナメントはどうだろう?
チェリシェフがOKならテニス選手の参加も問題なしのような気がするが、個人競技は国威発揚と結び付き易い面がある。例えば、ナダルの応援や祝福にはすぐにスペイン国旗が登場する、というような。
一方、チェリシェフのゴールを祝うのはクラブの旗を持った人たちだろう。チェリシェフがいるからバレンシアを応援しない、という人はいないだろうが、ロシア人テニス選手を応援しない、という人はいるだろう。
結局、個々の思想調査をするしか正当な排除、非排除の理屈はない。排除についてどんな決定にも反論は可能で、議論は尽きない。
※写真提供はサン・セバスティアン映画祭。