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奥州仕置後、豊臣秀吉に改易された3人の戦国武将

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
豊臣秀吉。(提供:アフロ)

 会社員が失態を演じた場合、運が良ければ軽い処罰で済むが、最悪の場合は懲戒免職である。天正18年(1590)、豊臣秀吉は奥州仕置を行ったが、罪を問われて改易となった3人の戦国武将を紹介しよう。

◎石川昭光(1550~1622)

 石川昭光は伊達晴宗の四男として誕生し、のちに石川晴光の娘を妻として婿養子になった。昭光の名は、ときの将軍・足利義昭の偏諱を授与されたものである。昭光は伊達政宗との関係が悪化したが、のちにその軍門に降り臣従した。

 天正18年(1590)に小田原合戦が勃発すると、昭光は小田原に出陣しなかった。政宗が小田原に向かった際、馬や刀を秀吉への贈り物として赦免の口添えを願ったが、改易処分を受けた。以後、昭光は伊達家の家臣になったのである。

◎葛西晴信(1534~1597?)

 葛西晴信は晴胤の子として生まれ、のちに親信(晴信の兄)の養子となり、葛西家の家督を継ぐことになった。晴信は伊達氏と協力して大崎氏と戦い、織田信長に面会して所領安堵を認められた。しかし、大崎氏との長きにわたる抗争は悩みの種だった。

 天正18年(1590)の小田原合戦の際には、葛西家の家中騒動が深刻だったので、晴信は出陣することができなかった。しかし、そのことを秀吉から咎められ、晴信は改易になったのである。晴信の晩年は不明で、その没年も疑わしい点がある。

◎大崎義隆(1548~1603)

 大崎義隆は、義直の子として誕生した。もともと伊達氏とは良好な関係を結んでいたが、のちに両者は対決することになった。その後、義隆は伊達政宗と和睦し、その軍事指揮下に入ったのである。天正18年(1590)に小田原合戦が勃発すると、義隆の運命は変わった。

 義隆は小田原に出陣しなかったが、その後も使者を秀吉に派遣しただけで、自ら面会することはなかった。その態度は秀吉の逆鱗に触れ、義隆は改易されたのである。以後、義隆は上杉景勝に庇護される身となり、慶長8年(1603)に会津で亡くなったという。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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