Yahoo!ニュース

ウクライナ、「イスラーム国」、南スーダンをつなぐ線:あるいは「近代の清算」の逆説について(その2)

六辻彰二国際政治学者

近代西欧文明の所産:「選び取る」こと

これまでの議論を踏まえて注意すべきは、「近代の清算」を目指す動きが、民族や宗教といった前近代的な結びつきを単位に進められていることです。これは国境再編といった大きな変動だけにとどまらず、各地で生まれている宗教復興や保守化の潮流と軌を一にします。

中学や高校の世界史では、「ルネサンスの三大発明」として羅針盤、火薬、活版印刷があげられますが、これらはいずれも中国で既に発明されていたものが、ヨーロッパで実用化されたに過ぎません。むしろ、「近代西欧文明の三大発明」として、ここでは自由民主主義、市場経済、国民国家の三つをあげたいと思います。これらの制度や理念はいずれも、宗教改革とルネサンスに端を発する、近代西欧文明でのみ生まれたもので、それがその後の植民地化の過程で世界中に普及したものです。

この三つは、「自らで選び取る」ことを是認する思考が根底にある点で共通します。自由民主主義は自分たちの政府を、市場経済は個々人や民間企業が商品の購買や供給を、国民国家は(例えばカトリック教会など)外部の権威を排して国家の方向性を、それぞれ自ら「選択」する制度あるいは理念です。故に、近代以降の西欧では、何らかの理念に基づき、社会のあり様そのものを「選択」しようとする動きが活発です。

一方で、これは「自らで選び取れない」ものから悪影響を受けることを「受忍しない」メンタリティに繋がります。それは近代政治哲学の始祖の一人ニッコロ・マキアヴェリが『君主論』のなかで「運命の半分は我々の支配者であるとしても、残る半分は我々の支配に服する」と述べたことに象徴されます。この思考様式を発展させていけば、社会的な不公正や不合理を矯正しようとすると同時に、人種や性差といった生物的属性や、民族や文化習慣といった文化的属性による制約をも拒絶することになります。どの国のどんな人でも、自分で自分の一生を「選び取りたい」と思うはずという前提に立てば、この近代西欧文明の所産には普遍性があるといえます。

近代への反動

ただし、「選択の是認」に普遍的価値があるとしても、これが反動をもたらす契機を三つあげることができます。

第一に、「普遍」が強制された場合、当然のように反動は発生します。ナポレオン率いるフランス軍によって占領されたイタリア、ドイツ、スペインなどでは、「自由・平等・博愛」の普遍的理念が持ち込まれましたが、普遍の名のもとに各地の特殊性が否定されることへの反動から、各地でナショナリズムが吹き荒れることとなりました。それは、世界を一元化しようとするグローバル化の波が、各地の宗教復興やナショナリズムを鼓舞する現在の状況と重なります。

第二に、「選択の是認」のもとに実際には「他者」によって支配される構図は、「普遍」への敵意を一層醸成させる契機となります。特に開発途上国では、投資や貿易を通じた「自由な」経済活動の結果、外資に富を握られることは、いまや珍しくありません。その場合、「外資を受け入れる」ことはその国の「選択」であったにせよ、事実上それ以外の選択がないことがほとんどです。

第三に、そして最後に、「選択の是認」は常によりよい世界を求めて、人為でもって改革し続ける必要性に人を駆り立てます。19世紀のヨーロッパにおける進歩史観と、現代の米国を中心とする「イノベーション絶対主義」は、その意味で軌を一にします。言い換えれば、そこには立ち止まることを許さない、もっと言えば満足することを許さない「貪欲さ」があります。それが経済成長や技術革新をもたらす契機になることは確かでしょう。しかし、同時にそれは、「不変」に対する憧憬を強くする契機になるだけでなく、社会を常に変動させる要因にもなります。社会的に優位な人間は、そのなかで生き残りやすく、さらにチャンスを大きくしやすい立場にあります。しかし、社会的に不利な立場にあるほど、常に変動する状況が「一発逆転のチャンス」よりむしろ「不安定」になりやすくなります。「選択の是認」の原則の下で常に変動する状況につかれた人間が、「変わらない」要素として宗教や民族といった「選び取れない」属性に心を惹かれることは、不思議ではありません。

これらに鑑みた時、ウクライナ、イスラーム国、南スーダンに共通するのは、近代の帰結であるところの「自分たちで選んだわけでない国境線あるいは国家の枠組み」を受忍せず、むしろ文化的、宗教的、民族的な「前近代的な結びつき」に基づいて、これを積極的に選び取ろうとする営為だといえるでしょう。

「歴史の終わり」と「文明の衝突」の間

ここで注意すべきは、これらの「近代の清算」には、相反するベクトルが働いていることです。つまり、一方では「前近代的な紐帯に基づいて現状を否定する」という意味で、近代に反するベクトルがあります。しかし、他方では「自分たちの将来を自分たちで選び取る」という意味で、近代に親和的なベクトルがあるのです。

冷戦終結後の世界を鳥瞰した二つの有名な理論に、「歴史の終わり」と「文明の衝突」があります。日系米国人のフランシス・フクヤマは1992年の『歴史の終わり』のなかで、冷戦終結後の世界では、冷戦期に西側でのみ存在した自由民主主義と市場経済が世界規模に広がると予測しました。言い換えると、フクヤマはイデオロギー対立の終わった世界を、西欧文明の所産が普遍化する契機になると捉えたのです。

これに対して、アングロ・サクソン系のプロテスタントでハーバード大学教授という絵に描いたような米国の主流派だったサミュエル・ハンチントンは1993年の『文明の衝突』のなかで、イデオロギー対立の終結が文明・文化ごとの対立を加熱させる契機になると論じました。そのうえで、ハンチントンは近代西欧文明が他の文明、なかでもイスラーム文明と中国文明からの挑戦を受けることになると予測しました。これは文化や文明といったものが決して「選び取れる」ものでなく、いわば先天的に区別されるものであって、人間はそこから逃れられないことを強調しているといえます。

この二つの理論を踏まえて冷戦後の世界を振り返ったとき、それぞれに当たっているところがあるといえます。フクヤマが予見したように、今の世界において民主主義の価値を否定することは、相当程度、困難です。他方で、ウクライナや北アフリカに象徴されるように、文明圏の境目ほど衝突が激しいことは、ハンチントンの予測を裏書きします。

ただし、これまでに述べてきた「近代の清算」の営為は、むしろ両者の中間で推移してきているといえます。前述のように、民族や宗教といった前近代的な紐帯が台頭する様相は、「選び取れない」要素を強調するものであり、文化決定論的な理解に基づくハンチントンの主張に沿ったものといえます。ただし、重要なことは、「近代の清算」の当事者たちはいずれも、前近代的な「選び取れない」結びつきを、意識的に自ら「選択して」いるということです。

ISのイスラーム過激派であれ、ウクライナの親ロシア派であれ、はたまた南スーダンのキール派、マシャール派のいずれであれ、外部の権威を拒絶し、近代史の帰結を受忍することを否定し、「自分たちで将来を選択すること」そのものを是認していることは共通します。そのテロ活動が各国の正統なイスラーム法学者らによって「非イスラーム的」と否定・非難されているにもかかわらず、ISなどイスラーム過激派は「ジハードこそ神の意志」と強調しています。そして、SNSなどを通じてそのメッセージが拡散し、貧困層や若年層を中心に世界各地の多くのムスリムを引き付けています。これはイスラーム世界内部の既存の権威への「受忍」より、自らの意志に基づく「選択」が優先される思考様式が広がる様相を示しているといえるでしょう。ロシアに支援を要望しながら、ロシア政府からの勧告に従おうとしないウクライナの親ロシア派や、国連や米中、さらにキール大統領やマシャール前副大統領の合意を無視しがちな南スーダンの各武装勢力の動向にも、同様の傾向を見出すことができます。

すなわち、「近代の清算」には、近代西欧文明の所産であるところの「選択の是認」を踏まえて、「選び取れない」文化的、民族的差異を強調することを「選ぶ」という逆説があるのです。さらに、既存の国境線を否定しながらも、最終的にはいずれかの国家の一部になる、あるいは独立国になるという志向は、近代的な国民国家の認識枠組みから自由でないことを示し、ここにも逆説が含まれています。その意味で、フクヤマの「歴史の終わり」とハンチントンの「文明の衝突」の間にある、白か黒か、二者択一の世界観では割り切れない世界が現出しているといえるでしょう。

「選び取れない」差異を「選ぶ」危険を克服するために

しかし、「近代の清算」は、国境の変更といったダイナミックな変動と無縁な国のなかでも見受けられるようになっています。「近代」発祥の地であるヨーロッパですら、「外国人嫌い」が蔓延し、EU議会選挙で極右政党が躍進するなど、「選び取れない」差異を強調することを「選び」、近代史の帰結を否定する様相の広がりをうかがわせます。それは、社会のあり様を「選び取れる」と捉える近代の帰結であるところのグローバル化への反動であり、これまで世界各地に「普遍」を輸出し続けてきたヨーロッパに、これまで西欧以外の地域で生まれていた「普遍への反動」がブーメランのように跳ね返ってきたということもできます。同様に、極右まがいの言説が飛び交うようになった日本も、この変動と無縁ではいられないことは、言うまでもありません。

「選び取れない」差異を強調することを「選ぶ」営為は、ウクライナ、イスラーム国、南スーダンでみられるように、絶え間のない「他者の識別」をもたらし、際限のない社会の細分化をもたらす危険性をはらんでいます。それはちょうど、ナチスの御用学者と呼ばれたカール・シュミットが「友‐敵の識別」こそ政治と主張したことを思い起こさせます。

これに鑑みれば、ハンチントンと同じく絵にかいたような米国の主流派で、個々人の認識枠組みが生まれ育った共同体の影響から無縁でいられないことを強調した共同体主義者のマイケル・サンデルが、文化決定論的なあるいは本質主義的な議論に与せず、新しい正義、新しい公共性を生み出すために議論する必要性を強調したことは、意味深長です。

すなわち、近代の極致と呼んでいいグローバル化のもとで生きる我々は、「選ぶ」ことが社会の細分化を加速させる危険性に歯止めをかけるために、「受忍すべきライン」を設け直す必要に迫られているといえるでしょう。もちろん、それが誰かに一方的に強いられるものであればそれこそ本末転倒です。しかし、国家間、国家内のいずれのレベルであれ、それがより開かれた形で行えるなら、より建設的な「近代の清算」と呼べるでしょう。

国際政治学者

博士(国際関係)。横浜市立大学、明治学院大学、拓殖大学などで教鞭をとる。アフリカをメインフィールドに、国際情勢を幅広く調査・研究中。最新刊に『終わりなき戦争紛争の100年史』(さくら舎)。その他、『21世紀の中東・アフリカ世界』(芦書房)、『世界の独裁者』(幻冬社)、『イスラム 敵の論理 味方の理由』(さくら舎)、『日本の「水」が危ない』(ベストセラーズ)など。

六辻彰二の最近の記事