樋口尚文の千夜千本 第198夜『福田村事件』(森達也監督)
殺しが静かにやって来る
とにかく静かで、のどかなのである。期待をこめて一番乗りで『福田村事件』の試写を観て、さまざまなことを考えさせられた。ところがそれからもう二か月半は経とうというのになかなか感想を書き出せないのだった。観てしたたかに満足した映画だというのに、ちょっと珍しいことだ。それはきっとこのヒステリックで物騒極まりない題材の映画が、予想に反してひたすら静謐で穏やかな作品であるからだろう。これだけの不条理を描きながら、この作品には何かを、誰かを糾弾して血祭りにあげようという昂りも煽りもまるで見当たらない。その静けさがむしろメッセージよりも重要なものとして私にしみこんで、本作のよさを煽ろうという気さえ沈静化させたふしがある。
というくらいに森達也監督の視座の平熱ぶりは筋金入りで、何やら暴露的でセンセーショナルな主題と表現を予想して身構えていた私は、開巻早々、駅周りの人物たちの日常描写のそっけないほどの静けさに呑まれるようであった。この冒頭の描き方のそっけなさ、無造作な印象について、森達也監督が初めての劇映画で技量不足だからそうなっているのでは、と記している感想をどこかで読んだ。確かにそのそっけなさは森監督があえてそうしているのか、いわゆる劇映画のカット割りやリズムに慣れていないせいなのか、そこはちょっと判じがたいのだが、そんなことはどちらでもいいのである。そもそも映画という生きものを創る時に、たとえば監督が技術に乏しかろうと、脚本家や俳優ともめようと、天候や事故など偶然の条件に翻弄されようと、最終的に映画が望ましいステージにじたばたとなだれこめたらいいのであって、何も監督が手練れとして全てを意識的に御す必要などない。
そんな前提のうえで思うに、この積極的なそっけなさは森監督が技巧に頓着していないというよりはドキュメンタリストとしての体質が勝っているからではないか。優れたドキュメンタリストでありつつ劇映画の鬼才であったのは大島渚監督だが、(現実の事件をモチーフにする点やコムアイや水道橋博士ら非職業的俳優を起用する点も大島の作法を連想させる)森監督も硬直した怒りやさめざめとした感傷は一切排除してそっけない。そこは大島の「事件」映画にも通底するのだが、大きく異なるのは大島が澄んだ無表情なまなざしにこだわりながら、映画のけはいは常に厳格で深刻であったことだ。
これは大島がこうした「事件」に触発された映画作品で観客という大衆を覚醒させ、リードしなければならないというシリアスな作家的使命を背負っていたからだろう。対して、森監督は自らのまなざしを素朴な大衆と同じ高さに据えているので、映画が静かであり、のどかなのだと思う。すなわち『福田村事件』の作家は、観客を挑発し牽引するのではなく、大衆のひとりとして事件に巻き込まれ、動揺し、「いったいなぜ?」と自問を続けるのだ。
しかし本作は、それゆえに大島の「事件」映画とはまた別種の怖さを獲得しているとも言えよう。この静けさ、のどかさの延長に、なぜか信じがたい虐殺が起こり、人びとはいかんともし難い痛覚に打ちひしがれ、しかしまたそれがあののどかさの中に回収されてゆく。虐殺そのものもショッキングだが、それを呑みこむこの日々ののどかさがいっそう戦慄的なのである。そして森監督はごくごく具体的に、日常のどんな要素が絡まり合い、不幸な偶然なども作用しつつ、いったいどんな瞬間にどんななりゆきで虐殺のスイッチが入るのかを観客に明らかにする。もちろん闇に葬られた事件なので虚構の補完も多いとは思うが、なるほどそういういきさつだったのかと茫然となる。
だが、虐殺発生のメカニズムは概ね可視化されても、なぜ人がこんなことをやってのけてしまうのか、その根本はわからない。森監督のまなざしも、そこについては素直にとまどい、慄くばかりで、通り一遍の決着は避けている。森監督はしばしば著書でもホロコーストやクメール・ルージュ、ルワンダの大量虐殺事例を引きながら、人が集団で発狂するメカニズムをわかりやすく解き明かそうと試みるが、「ではなぜ人にそれができるか?」という核心については安易な断定は避けている気がする。このわからなさを体感的に伝えるのもまた映画ならではの表現であるはずだが、まさにこの村において最も知的で自由なカップルであろう井浦新、田中麗奈の目撃者としての表情にそれは集約されているだろう。この二人はもちろんのこと、水道橋博士、東出昌大がめざましいプレゼンスを見せてくれた。