弟でも許さない。織田信長が弟の信勝を暗殺した方法とは
兄弟喧嘩は今でもあるが、一つ間違えると殺人事件になることも珍しくない。織田信長は同母弟の信勝と対立し、最終的に暗殺した。信長は、いかなる方法で信勝を暗殺したのか、以下『信長公記』などの史料により、考えることにしよう。
信勝は信長の同母弟(父は織田信秀、母は土田御前)であるが、生年は不詳である。天文21年(1552)に信秀が亡くなると、信長と信勝は対立的な様相を見せた。
『信長公記』によると、信秀の葬儀の際、信長は仏前に抹香を投げつけたが、信勝は折り目正しかったという。この話の真相は別として、当時、まだ信長の権力は確固たるものではなかった。
弘治2年(1556)8月、信勝は配下の柴田勝家、林通具とともに、信長に対して挙兵した。信長はただちに応戦し、稲生(名古屋市西区)で信勝との戦いに勝利した。
信勝は勝家と敗走したが、林通具は討ち取れたのである。その後、信勝は末森城(名古屋市千種区)で籠城したのである。
信長は、容赦なく末森城に攻撃したが、母の土田御前から懇願されて攻撃を中止した。戦後、信長は信勝だけでなく、柴田勝家、林秀貞(通具の兄)も許したのである。
信長と言えば、敵対勢力を徹底して殲滅するイメージが強いが、素直に降参した場合は、許すこともあったのである。
ところが、信勝の家臣団には、大きな変化が生じていた。勝家は信勝に仕える古参の家臣だったが、信勝は津々木蔵人という新参の家臣を登用した。
それまで、勝家は信勝に尽くしてきたのだから、その心中はいかばかりのものか察するところである。信長との戦いの敗戦も相まって、勝家はついに信勝に見切りをつけた。
実は、信長も信勝を心の底から許したわけではなかった。たとえば、岩倉城(愛知県岩倉市)主の織田信安に通じ、再び信長への謀反を企んだという。
当然、信長もこのような動きを察知していたはずである。そのような事情もあり、勝家と信長は結託して、信勝の暗殺を企てた。
弘治3年(1557)11月、勝家と土田御前は信勝に対し、病気だった信長の見舞いに行くように熱心に勧めた。
しかし、信長は病気ではなく、それは信勝をおびき寄せるための作戦だった。事情を知らない信勝は、清洲城(愛知県清須市)に行くと、暗殺されたのである。
信長は、許した相手が従順であれば、配下に加わることを許した。しかし、いかに血を分けた同母の弟であっても、不穏な動きをすれば、迷わず暗殺したのである。