「戦国の梟雄」松永久秀は、将軍足利義輝の殺害に関与していなかった
世に冤罪があるというのは、実に不幸なことである。「戦国の梟雄」松永久秀は、将軍足利義輝の殺害に関与していたといわれてきたが、実は関与していなかったと指摘されているので、その辺りを確認してみよう。
松永久秀は三好長慶の配下にあったが、のちに力をつけ台頭すると、大和に多聞山城(奈良市)を築き居城とした。永禄7年(1564)に主君の長慶が亡くなると、三好三人衆(三好長逸・岩成友通・三好政康)とともに政権の実権を掌握した。
足利義輝は義晴の子として誕生し、天文15年(1546)に13代将軍に就任した。ところが、三好長慶が台頭したので、抗争と和睦を繰り返すことになった。一方で、剣術を塚原卜伝から学んだとされ、なかなかの剣豪として知られた将軍でもある。
永禄7年(1564)に長慶が没すると。先述のとおり久秀と三好三人衆が政権の実権を握った。義輝は畿内の政治情勢の変化に対応すべく、京都市中に二条御所を造営した。二条御所は堀や石垣を整備し、城郭のようなものを作ろうとしたといわれている。
翌年5月19日、義継、松永久通(久秀の子)が約1万の軍勢を率いて、二条御所に押し寄せた。彼らは将軍に対して、要求があったので取り次ぎを求めたのである。まだ二条御所は完成しておらず、義輝はすぐに情勢が不利なことを悟った。
義輝は攻め込んできた敵に対して、果敢にも長刀を振るい、立ち向かっていったという。しかし、しょせんは多勢に無勢であり、義輝は力尽きたところを討ち取られたのである。義輝の死を知った山科言継は「先代未聞の儀也」と驚きを隠せなかった(『言継卿記』)。
義輝が殺害されたとき、久秀は多聞山城で覚慶(のちの足利義昭。義輝の弟)を庇護していた(「円満院文書」)。当時、覚慶は興福寺一乗院門跡だった。つまり、久秀は義輝を討つため京都に出陣しておらず、保護していた覚慶を次期将軍に据えようとしていたという。
これまで、久秀が将軍義輝の殺害に関わっていたような言われようだったが、実際はそうではなかった。とはいえ、間接的には関与していた可能性(計画したり、指示を出したりするなど)は、大いにあったのではないだろうか。
主要参考文献
天野忠幸「松永久秀は足利義輝の殺害にかかわっていなかった」(渡邊大門編『戦国史の新論点 平成・令和の新研究から何がわかったか?』星海社新書、2024年)