真珠に秘められた知られざる魅力 水素社会へ飛躍の可能性が出てきた
わが国では主に養殖アコヤガイから真珠が産出されます。明治半ばから始まった養殖業は、長い年月を経て今では水難事故の少ない水産業の一つとなりました。そして宝石として世界を魅了してきた真珠が今、水素社会に躍り出ようとしています。
真珠養殖と水難事故
わが国の真珠養殖の歴史はおよそ130年です。
現在では、図1に示したようにいかだを用いた垂下式養殖が主流です。まず、真珠の核となる球状の貝殻の破片と細胞を母貝となるアコヤガイに挿入します。これを核入れと言います。その後仮吊りを経て、垂直に下げるタイプの網にアコヤガイを並べるように入れて養殖の準備をします。沖にある本イカダに網を移す「沖だし」と呼ばれる作業を経て、養殖がスタートします。
真珠を産出するまでには、通常1年から3年の歳月を必要とします。本吊りの間にも、貝掃除など母貝の手入れを欠かしません。そういった一連の作業ではいかだ周辺にボートを出して、一つ一つの網を水面にあげて作業をすることになります。
水産庁の報告によれば、平成20年から29年までのすべての船舶からの海中転落による死者・行方不明者数は1077人。そのうち養殖も含めてすべての漁船からの転落による者は643人で全体の60%を占めます。
真珠養殖の作業中に絡む事故は全体からみると少なく、真珠養殖主要3県である愛媛県、長崎県、三重県にてわずかにみられます。
比較的新しい事故は2015年に三重県志摩市で発生し、転落したと思われる73歳の男性が真珠養殖用のいかだのそばの海中に沈んでいるのを発見されました。(2015.06.12 朝日新聞)
愛媛県では宇和島市付近で養殖いかだのロープを交換するため潜水作業をしていた49歳男性が作業中に水死しました。(2014.08.08 読売新聞)
長崎県では壱岐市にて46歳男性がいかだ付近にて作業中に転落し水死しました。(2008.12.18 読売新聞)
これ以前には、数年に一人の割合で養殖作業中に転落等により作業員が命を落としています。養殖そのものが入り組んだ湾内などの比較的穏やかな海面で行われるためとも思われますが、漁船からの海中転落事故全体に占める割合は低く、真珠養殖は水難事故に関して言えば比較的安全性の高い水産業と言えます。
アコヤガイの構造
ここからは構造と言っても、肉質の部分ではなくて、貝殻の部分の話です。
アコヤガイの貝殻は図2に示すように、外側に稜柱層、内側に真珠層と2層の構造を持ちます。見栄えが全く異なる2つですが、ものは同じで炭酸カルシウムです。ただし結晶構造が違っていて、稜柱層はカルサイト、真珠層はアラゴナイトと呼ばれる結晶からなります。
アコヤガイは、肉質の内部にてアラゴナイトからなる真珠を作るばかりでなくて、貝殻内側にもアラゴナイトからなる真珠層を作ります。
真珠(層)を拡大すると、2層に分かれていることがわかります。図3にそれをイラストとして示します。一つは薄いアラゴナイト結晶、他方はタンパク質です。この2層がたくさん積み重なると、それを積層と呼びます。
積層内の2つの層のそれぞれの厚さの組み合わせによって、真珠の外からの白色光の反射の仕方が変わります。反射光によってはきめが細かく艶がある見栄えになったり、うっすらと色がついたような見栄えになったりします。
ピンク、ゴールド、ブルーなどの独特の色は積層内の光の干渉によって起こるために、アラゴナイト結晶の積み重なりの厚さが10万分の1ミリ違うだけで反射光は異なる発色になります。ウイルスの大きさのさらに10分の1くらいの話です。こんなわずかな厚さの差の話ですから、真珠の色の見栄えはアコヤガイのご機嫌どころか、個性によって変わってしまうくらいの作品なのかもしれません。
実際に、養殖作業では核入れしたアコヤガイを波の穏やかな海域に置くばかりでなく、波の強い海域にも置くことがあるそうです。昔からの経験で、こういった環境の変化が「アラゴナイト結晶とタンパク質との積層構造を変える」とわかっていたのでしょう。
動画 アコヤガイから真珠を取り出す様子(筆者撮影)
真珠が水素を吸収する
真珠の主成分であるアラゴナイトや貝殻のカルサイトは炭酸カルシウムです。炭酸カルシウムは、大気から海中に溶け込んだ二酸化炭素を食物連鎖によって取り込んだ結果できたものです。だから端的に言えば、貝は大気中の二酸化炭素を減らす作用に貢献していると言えます。
最近、筆者の研究室では、貝殻由来のアラゴナイトが水素をよく吸収することを発見しました(1)。同じ成分でも貝殻由来のカルサイトは水素をほとんど吸収しませんから不思議です。
燃料に使っても二酸化炭素を排出しない水素。脱炭素を狙う今の社会では、水素のエネルギー利用は必須条件となります。ところが水素は大量に運搬するには厄介な気体です。通常気体の燃料は、液化天然ガスのように液体にして運ぶのですが、水素を液化するには極めて低い温度に保たなければなりません。今の技術では運んでいる途中に沸騰するため、どんどん気化して大気中に水素が放出されることになります。
そういう時には、何かに吸着して運ぶものです。水を手のひらに載せて運ぶと指の隙間からしずくが落ちるのに対し、スポンジに吸わせれば手のひらに載せてもあまりしずくが落ちないのとほぼ同じ原理です。
例えばアコヤガイの真珠層を使うのであれば、図4に示すようなプロセスを取ります。①ある処理をしてアラゴナイト結晶にくっついているタンパク質を除去します。②そのアラゴナイトを高い圧力の水素中に置くとアラゴナイトに水素が吸い込まれていきます。③目的地に運搬します。④水素を使う時には、水素を吸収したアラゴナイトを水に入れます。そうすることによってアラゴナイトが水素をガスとして吐き出します。アラゴナイトは水に入れても変化しないので、⑤乾燥させてからまた水素を吸収させて再利用することができます。
この原理を使うことによって、運搬中に水素をあまり気化させずに済むことになります。水素の運搬効率を高めることによって、将来の水素社会はかなり現実的に見えてきます。
さいごに
科学技術の成長戦略と言っても、昔と違って今は環境負荷の高い技術をそこに載せるわけにはいきません。上流から下流に至るまで人に優しく、環境に優しくなければなりません。
真珠養殖のように、労働安全の観点で比較的安心して作業できる水産業を基に、そこにて付加価値の高い製品を産出する既存産業を振興しつつ、副産物をも最先端に利用する、そういった組み合わせからなる新しいタイプ、すなわち持続可能な科学技術が今、求められています。
参考文献
(1) H. Li, K, Komatsu, A. Nakamura, O. Ito, K. Nambu, H. Saitoh, “Hydrogen adsorption and desorption characteristics of heat-treated calcium carbonate derived from Akoya-Pearl-Oyster nacre”, Journal of Environmental Chemical Engineering 8(4) 103983 (2020).