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豊臣秀吉に逆らったが、辛うじて命だけは助かった武将3人

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
伊達政宗像。(写真:イメージマート)

 会社で上層部に逆らい、飛ばされる会社員は珍しくないが、その後怒りが解けて元の部署に戻るケースもあろう。豊臣秀吉に逆らった武将の中には殺された者もいたが、辛うじて命だけは助かった者もいたので、そのうち3人を紹介することにしよう。

◎長宗我部元親

 長宗我部元親が四国統一を目前にし、織田信長と対立したのは有名な話である。天正10年(1582)6月に本能寺の変が勃発し、信長が横死すると、羽柴(豊臣)秀吉が後継者となった。秀吉が小牧・長久手の戦いで徳川家康らと戦っている頃、元親は四国統一に動き出した。

 天正13年(1585)に秀吉が紀州を征伐すると、元親に伊予・讃岐の返還を命じたが、これは拒否された。その後の四国征伐で秀吉は、元親に圧倒的な勝利を収めた。結果、元親は命こそ助かったが、土佐一国の領有しか認められなかったのである。

◎島津義久・義弘兄弟

 島津義久・義弘兄弟は大友宗麟と九州で覇権を争い、やがて優位になった。敗勢が濃くなった宗麟は、豊臣秀吉に助けを求めた。秀吉は自身の政策基調の惣無事に基づき、島津氏に戦いを止めるよう勧告し、九州の国分案を提示したのである。

 しかし、秀吉の国分案は、島津氏に取って不利だったので拒否された。その後、秀吉は薩摩・大隅に攻め込み、島津氏は降伏した。戦後、秀吉が改めて九州国分を行うと、義久・義弘兄弟は命こそ助かったものの、前より不利な条件を飲まざるを得なかったのである。

◎伊達政宗

 天正18年(1590)、豊臣秀吉は小田原征伐を敢行すると、政宗は出陣するよう促された。しかし、政宗は小田原北条氏に味方すべきか悩み、小田原に遅れて出陣した結果、秀吉の圧倒的な軍勢を目の前にして、臣従することを決意したのである。

 政宗は命こそ助かったが、会津領を収公され、72万石を安堵された。その際、本拠を黒川城から米沢城に移した。慶長5年(1600)に関ヶ原合戦が勃発すると、徳川家康は政宗に旧領回復を条件として味方になるよう求めたが、家康は勝利したにもかかわらず、約束を履行しなかったのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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