静かに広がる「右翼テロ」の脅威―イスラーム過激派と何が違うか
国際ニュースでみない日はないほど、イスラーム過激派によるテロ活動はもはや日常になった感さえあります。しかし、欧米諸国ではここにきて新たな脅威が台頭しており、しかもそれは内側から沸き起こってくるものです。
2月27日、英国警察のテロ対策責任者だったマーク・ロウリー氏は「世界中がイスラーム主義者と右翼の過激主義とテロリズムという共通する課題に直面している。しかし、英国よりこれにうまく対応できている国はないと思う」と発言。英国のテロ対策が他国のそれより優れているかどうかはさておき、「白人右翼テロ」が新たな脅威として、欧米諸国で広がりつつあることは確かです。
米国での白人右翼テロ
白人右翼によるテロへの警戒は、英国以外の国でも広がりをみせています。
2017年6月、米国の調査機関インベスティゲイティヴ・ファンドは2008年から2016年までのデータから、米国ではイスラーム過激派によるものより、白人右翼によるテロの方が頻繁に発生し、多くの犠牲者を出していると報告。この調査によると、
- イスラーム過激派による事件は63件、そのうち76パーセントは未然に防止された。
- 白人右翼による事件は115件、そのうち35パーセントが未然に防止された。
- 死者を出した事件は、イスラーム過激派による事件のうち約13パーセントで、総死者数は90人。
- これに対して、白人右翼による事件のうち約三分の一で死者が出ており、総数は79人。
ここから、発生の頻度で比較すれば、トランプ氏が「イスラーム過激派によるテロ」を強調して大統領選挙で勝利した米国では、ムスリムによるものより白人によるテロの方が多く発生していることが分かります。さらに、死者の総数で比較すればイスラーム過激派の方が多いものの、この多くは2009年のテキサス州での乱射事件によるもので、白人右翼による事件の方が銃器の使用頻度が高く、より頻繁に死者を出しています。そのうえ、未然に防止された割合から分かるように、当局はムスリムと比べて白人への警戒・監視に熱心だったとはいえません。
「ヘイトクライム」とテロリズム
「白人右翼のテロ」という表現に違和感をもつひともあるかもしれません。
一般的にテロリズムとは「殺人を通して、政敵を抑制・無力化・抹殺しようとする行動」(『政治学辞典』、弘文堂)と定義されます。最近のテロ活動には殺人以外に脅迫、暴行、器物損壊、誘拐、レイプなど、さまざまな手段が含まれるものの、概ねこの定義にしたがってよいと思います。
ところで、米国で「ヘイトクライム(憎悪に基づく犯罪)」と呼ばれる、主に白人至上主義者による黒人やムスリム、さらにその擁護者である白人をも対象とする事件は、「米国は白人の国であるべき」という政治信条によって立つものです。人種や宗教の違いが「政治的な意味」をもつことは、殺傷などをともなう重大なヘイトクライムが単純な犯罪ではなく、「政敵へのテロリズム」であることを意味します。
2月14日にフロリダ州の高校で発生した、17人が死亡する銃乱射事件で逮捕されたニコラス・クルーズ容疑者は、黒人やムスリムへの差別的な発言を繰り返し、白人至上主義者と結びつきがあったと報じられています。「米国が白人の国であるべき」と捉える者が、多くの人種・民族や宗教・宗派がともにある学校を、その政治的信条に反するものの象徴として標的にしたとするなら、これはテロリズムと呼ばざるを得なくなります。
拡散する白人右翼テロ
米国の場合、白人右翼によるテロは南北戦争の時代にまでさかのぼります。1865年、エイブラハム・リンカーン大統領(当時)が奴隷解放に反対する者によって暗殺されたことは、その象徴です。
ただし、2001年からの対テロ戦争、2008年のリーマンショック、2015年からのシリア難民危機などにより、米国をはじめ欧米諸国ではゼノフォビア(外国人嫌い)と呼ばれる風潮が広がったことで、殺人など重大な結果に至らないものを含めて、ヘイトクライムが増加傾向にあります。例えば英国では、同国内務省によると2017年に報告されたヘイトクライムが80,393件で、これは前年度比で29パーセントの増加です。
白人右翼テロの標的は、黒人やムスリムだけでなく、多文化の共存を認める白人や団体にも向かいます。2011年7月にノルウェーで、移民受け入れを進めていた労働党の青年部の関係者69人を含む77人が白人至上主義者に殺害されたテロ事件は、その象徴です。また、EUからの離脱の賛否を問う国民投票の直前の2016年6月、EU残留を説いていた英国労働党のジョー・コックス議員が極右活動家に殺害された事件も、これに含まれます。
その根底には、「白人キリスト教徒、あるいはその国の多数派であることの特権」が浸食されることへの危機感があるといえるでしょう。
「物言わぬ」白人右翼テロ
欧米諸国で広がる白人右翼テロは、イスラーム過激派や左翼のテロと比べて、何が違うのでしょうか。
ドイツでは2018年1月、極右勢力「国家社会主義地下組織(NSU)」のメンバー、ベアーテ・チェーペ被告の裁判が最終段階に入りました。同被告は2011年、トルコ系移民を少なくとも10人殺害したとして逮捕されていました。この事件は「ネオナチの台頭」として欧米諸国で広く関心を集め、この事件をモデルにした映画 In the Fade は2018年1月、ハリウッドで選出されるゴールデングローブ賞の外国語映画賞を受賞しました。
NSU事件を受けて、ドイツではNSU、イスラーム過激派「イスラーム国(IS)」、極左組織「ドイツ赤軍派(RAF)」などそれぞれの専門家が参加したシンポジウムが開かれ、このなかでドイツ連邦議会でNSU調査を担当したクレメンス・ビニンガー議員は「治安機関は極右過激派に目を向けることはなく、彼らの思考スタイルはあまりに因襲的すぎた」と批判。これはつまり「『白人右翼によるテロはないだろう』という思い込みがあった」ということです。
さらに、RAFに詳しいジャーナリスト、バッツ・ピータース氏はNSUメンバーが20年近く偽名でドイツ東部に潜伏し、その間ほとんど活動せず、RAFやISと異なりほとんど何もメッセージを発しなかったことが、ドイツ社会における「白人右翼テロへの警戒感」を生まなかったと指摘。その結果、ドイツ治安機関の要注意人物に関する、全国で共有されるデータベースにNSUメンバーは掲載されていませんでした。
つまり、イスラーム過激派や極左過激派と異なり、NSUには組織的にメッセージを発する仕組みや宣伝が乏しく、その意思もほとんど見受けられませんでした。これに加えて公的機関の警戒も薄く、そのなかで白人右翼テロは静かに広がっていったといえます。
軽視されやすい右翼テロ
これは他の国にも共通する特徴といえます。これまで紹介したどの白人右翼テロの事例でも、イスラーム過激派や左翼過激派と比べて、自らの行為の正当性に関するアピールは稀です。さらに、先述の米国インベスティゲイティヴ・ファンドの調査でも、イスラーム主義者と比べて白人右翼に対する監視は乏しく、結果的に事件を未然に防げない率が高いことが報告されています。
外国人や少数派に対する警戒感が強まるなか、その国で支配的な民族や宗派によるテロ活動は見過ごされやすく、発生しても個人的な犯罪と扱われがちです。先述のように、白人右翼テロは明らかに社会的背景に基づく「テロ」ですが、多くの場合個人の「ヘイトクライム」と扱われやすく、このことは「『多数派』によるテロ」を増長させる土壌になるといえるでしょう。
「『多数派』によるテロ」は欧米諸国だけでなく、モディ政権に近いヒンドゥー過激派によるムスリム迫害が目立つインドや、軍や過激派仏教僧によるムスリム迫害が世界中から関心を集めるミャンマー、逆に政府の「イスラーム化」にともなってキリスト教会関係者などへの襲撃が相次ぐトルコなど、多くの国でみられることです。
ただし、そのなかでも欧米諸国は、この点でさすがにというべきか、メディアや研究機関を中心に、「内輪の恥」をも明らかにする自浄作用が働きやすいといえます。これまでとりあげてきた米国インベスティゲイティヴ・ファンドの調査や、英国警察の元責任者の発言、ドイツでのシンポジウムなどは、これを示します。反移民・難民感情が広がるなか、これらの自浄作用がどこまで機能するかは、その国で自由と法の支配がどの程度確立されているかの目安になってくるでしょう。
日本にとっての試金石
その意味で、日本も決して無縁ではありません。
例えば、日本の警察庁の統計では「外国人による犯罪のデータ」は明示されていますが、「外国人が被害者である犯罪のデータ」は示されていません。そこには「外から来る連中は警戒すべきだが、日本人が外国人に危害を加えることはない」という思い込みがあるようにみえますが、それこそドイツのシンポジウムでビニンガー議員が述べた「因習的な発想」ではないでしょうか。
戦後の日本でも、オウム真理教による一連の事件や、革マル派など左翼過激派によるテロだけでなく、右翼によるテロもありました。自民党の金丸信議員への銃撃(1992)、民主党の石井紘基議員の刺殺(2002)、そして2月23日に発生した朝鮮総連本部への銃撃などは、その代表です。
このうち、特に総連本部銃撃事件に関しては、いかに外交レベルで北朝鮮と対立しているとしても、テロ行為を容認してはいけないはずですが、そこに対する批判は必ずしも多くありません。ここに、移民やムスリムへの反感を背景に欧米諸国で白人右翼テロが静かに広がったのと同じ社会状況を見出すことができます。
しかし、先述のように、少なくとも欧米諸国では自浄作用もみられます。したがって、右翼テロへの対応は、日本が自由と法の支配を重視する国として一人前なのか否かの試金石になるといえるでしょう。