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億万長者が故郷へ贈り物 北欧美術の新拠点「クンストサイロ」、ノルウェーに誕生

鐙麻樹北欧・国際比較文化ジャーナリスト|ノルウェー国際報道協会役員
写真:Alan Williams Photography/Kunstsilo

首都オスロから飛行機で45分、電車では4時間30分。ノルウェー南部にあるクリスチャンサンという都市に筆者は来ていた。クルーズ船が止まり、夏の避暑地として人気があるクリスチャンサンは、観光客で溢れている。5月初旬、世界中から文化・建築を専門とする記者たちが、この小さな美しい避暑地に集まっていた。港の沿いに堂々とそびえ立つ、白い煙突のようなものが並ぶ建物。私たちの狙いはここ、「クンストサイロ」(Kunstsilo)だった。

穀物の所蔵庫から、現代美術館への転換

穀物サイロからアートサイロへ。昔の穀物の所蔵庫としての面影を残して改修された。美術館は3つの展示フロアにまたがっている 筆者撮影
穀物サイロからアートサイロへ。昔の穀物の所蔵庫としての面影を残して改修された。美術館は3つの展示フロアにまたがっている 筆者撮影

5月11日にオープンする新現代美術館クンストサイロは、ノルウェー現地だけではなく、国際的にも様々な理由で注目を浴びている。欧州の経済界では有名な資産家であり、ノルウェーでその名を知らぬ人はいない、とある億万長者がいる。

「30年間かけて集めてきた北欧の美術品を、故郷のクリスチャンサンに寄贈したい」

億万長者が1000点以上のコレクションをクリスチャンサン市に寄贈する。とんでもないアイデアが提案され、小さな町の市民と、ノルウェー国民を驚愕させたのは2015年だ。

彼の名前はニコライ・タンゲン。世界最大級の政府系ファンドであるノルウェーの石油ファンドを運用するノルウェー銀行投資管理の現CEOでもある。

巨大なコレクションを展示する「未来の美術館」として目が付けられたのが、「穀物サイロ」と呼ばれていた建築物だった。飢餓の予防のために1935年に建てられ、89年間、穀物の保管場所を意味する「サイロ」として機能した。閉鎖された建物は、「穀物サイロ」から「アートサイロ」として新しい生命を吹き込まれることになった。

屋上テラスでは街を一望することができる 筆者撮影
屋上テラスでは街を一望することができる 筆者撮影

このミュージアムの素晴らしさは「北欧の現代美術」への徹底したこだわりだ。主催者側によると、これほどの規模の北欧アートが集まったミュージアムは世界にはないという。

ノルウェー出身の画家エドヴァルド・ムンクの『叫び』に匹敵するような「誰もが知るアイコン」はここにはない。だが、そんな小さな不満はすぐに吹き飛ぶほど、来場者は「新しい北欧の世界」に足を踏み入れたことを、すぐに実感するだろう。フィンランドのマリメッコのような柄が好きな人が魅かれる作品も数多い。聞いたことがない名前ばかりだが、「もっと知りたい」と好奇心をそそられる。

デンマークの画家Franciska Clausenによる『Contrastes des formes』(1927) 写真: Øystein Thorvaldsen/Kunstsilo
デンマークの画家Franciska Clausenによる『Contrastes des formes』(1927) 写真: Øystein Thorvaldsen/Kunstsilo

億万長者を連想する美術館を「地方」でオープン 現地で続いた物議

日本のような「蒸し暑い」夏がないノルウェー。快適な夏の素晴らしさは、クリスチャンサンで堪能できる。夏の心地よい天気を求めて、避暑地を何度も訪れる現地民は多い 筆者撮影
日本のような「蒸し暑い」夏がないノルウェー。快適な夏の素晴らしさは、クリスチャンサンで堪能できる。夏の心地よい天気を求めて、避暑地を何度も訪れる現地民は多い 筆者撮影

規模や注目度の大きさでいうと、このような美術館は首都や大都市に建ちそうなものだ。

寄贈者の出身地とはいえ、11万人という「小さな規模の地方」が「国際的な美術館」の建設地として選ばれるのは、世界的には珍しいだろう。

権力分散を好むノルウェーでは、この動きはむしろ歓迎するところだ。しかし、問題となったのはお金の出どころだった。かのニコライ・タンゲンがバックにいるからといって、建設費などを全て彼が賄うわけではない。社会主義の傾向が強いノルウェーなので、エリート集団や民間よりも、国営・公共として文化施設は運営されることが好まれる傾向がある。一方で、億万長者の贈り物に税金が使われることに対して、金持ちのタンゲン氏が「もっと払うべきだ」と思う人もいる。

全国規模でメディアと市民が何年間も議論し、国・自治体・財団・個人など「官民連携」での助成となった。地元民だけではなく、国民の理解も得ながら進めなければいけなかった。クリスチャンサン市議会にとっては、骨の折れるプロジェクトであったろう。

ノルウェーの新ムンク美術館や新国立美術館にも起きた、改修された建物の外観が「醜いか」「美しいか」の議論も起こる。日本では考えられないレベルで、この国では文化施設計画のプロセスに、メディアも市民も当たり前のように参加するのだ。

とはいえ、ノルウェー現地でこのような議論が続いた背景は、国際メディアや国外の観光客には知ったことではない。ゆえに、昔「穀物サイロ」として使われた古い歴史的建築物が「アートサイロ」として生まれ変わったこと、古い建物を破壊し、新しいものをゼロから立てるのではなく、歴史を残しながら再生する「持続可能なこれからの建築モデル」として注目される。また、世界では広く知られてこなかった「北欧の現代美術」をまとめて鑑賞できる場所として、期待されている。建築・アート・メディア業界から注がれる視線は熱い。

国際的な注目度は、ノルウェーの人々を静かに喜ばせている。「小さな国」という自覚が強い国だからこそ、世界に注目されるのは、嬉しいご褒美だ。CNNに「2024年に世界で最も重要な10の新建築物のひとつ」 、フィナンシャル・タイムズ紙には「2024年の世界のトップ・デスティネーション」、雑誌フォーブスには「休暇の目的地」として報道・推奨されたことは、ノルウェーでは今も語り草となっている。

国際的な注目で、「観光磁石」として観光客を引き寄せて、町を豊かに実らせてくれるなら、それでよい。

一方で、どれほどの「観光磁石」となれるかが、これからのクンストサイロの課題となるかもしれない。

未来への投資

クルーズ観光客で賑わうクリスチャンサン。美しい緑の自然、青い水と空。「美術館の中に入るよりも、自然の堪能に観光客は熱心になってしまうのでは?」と、フランス出身の記者は考えていた 筆者撮影
クルーズ観光客で賑わうクリスチャンサン。美しい緑の自然、青い水と空。「美術館の中に入るよりも、自然の堪能に観光客は熱心になってしまうのでは?」と、フランス出身の記者は考えていた 筆者撮影

日本の皆さんが北欧旅行をするときに、ノルウェーを訪れるとしたら、どこだろう?世界遺産やフィヨルド観光でベルゲン、オーロラ観光でトロムソ、ムンクの『叫び』を求めてオスロといったところではないだろうか。そう、クリスチャンサンは定番の観光地ではないのだ。

筆者やフランスなどの記者たちは共に座りながら、まさにこのことを話し合っていた。「読者がクリスチャンサンに来るだろうか」、と。

ここはノルウェー市民の間では人気の避暑地であり、子どもが喜ぶ遊園地もあるために、現地の家族などが訪れる。しかし、国外の観光客が来るとしたら滞在時間が限られたクルーズ観光客だ。美術館の関係者も、この課題を認識していた。特に欧州から離れたアジア観光客などを呼び込むには、観光業界や自治体を巻き込んだ戦略と時間が必要だろう。

そして、そこにまさにクンストサイロが建設された「衝撃」が象徴されている。

特定の市民や観光客をここまで呼び込むまでには多大な努力が必要とされるであろうクリスチャンサンという「地方自治体」に、「国際的な注目を集める価値のある美術館」が建設された驚きが。国や自治体、政治家を巻き込んで、この計画を実現できた「プロセス」こそが、「他国では実現不可能だろう」と関心する記者もいた。

「首都にはもう十分アートはあるから」。地方に力とお金を注ぐ姿勢は、日本を含む多くの先進国が学ぶところがあるかもしれない。

筆者と共にいたロンドン出身のアート専門記者は、パンデミックが終わったにも関わらず、市民は以前ほど美術館には戻っていない傾向があると語っていた。「この物価が高い今、市民が渡航費やチケット料金を払ってまで、クリスチャンサンに来るほどの価値はあるだろうか?クンストサイロに関わらず、人々は地元の美術館に今お金を払う理由はあるだろうか?」。この質問を筆者はノルウェー銀行のCEOでもあるタンゲン氏に、直接聞いてみた。

「もちろんです。北欧の最大級のアートコレクションを見に、クリスチャンサンには来る価値があります。そして、今だからこそ、私たちはミュージアムを訪れたほうがいい。なぜなら、それが幸福への鍵となるからです」

タンゲン氏は英国での居住歴も長い。今も夏を過ごしに故郷クリスチャンサンを訪れる。2023年に雑誌『Kapital』でノルウェーで38番目の富豪として報道された 筆者撮影
タンゲン氏は英国での居住歴も長い。今も夏を過ごしに故郷クリスチャンサンを訪れる。2023年に雑誌『Kapital』でノルウェーで38番目の富豪として報道された 筆者撮影

「アートに関心がない市民」にも来てもらいたい野望

筆者撮影
筆者撮影

観光客だけではなく、「アートに関心がない市民」にも来てもらいたいという野望がクンストサイロにはある。ノルウェーでも、誰もが美術館のチケットにお金を払うわけではない。来る人は来るが、「アートは敷居が高い」と距離を置く人はどこの国にもいるものだ。

ただでさえ、「あの」ニコライ・タンゲンという億万長者のイメージがついた美術館なので、「エリートの場所だ」と思われるリスクもある。国や自治体の助成も受けたからには、幅広い市民の居場所となる責任をもつ。そこで、1階は入場チケットを購入しなくとも、誰もが自由に「ぶらぶらできる」空間になった。1階からは天井まで突き抜けとなった空洞を見ることができ、かつての穀物の保管所だった歴史を感じるだろう。また、子どもや若者にとって安心できる場所であるために、今後は多くのイベントも開催予定だ。

アートを遠く感じる市民に門を開くために、「芸術批評家は嫌う」とされる没入感のあるデジタルアートも導入。ノルウェーの画家Reidar Aulieによる『チボリ』の世界が動き出す 筆者撮影
アートを遠く感じる市民に門を開くために、「芸術批評家は嫌う」とされる没入感のあるデジタルアートも導入。ノルウェーの画家Reidar Aulieによる『チボリ』の世界が動き出す 筆者撮影

長年の議論を重ねてやっとオープンしたクンストサイロ。ノルウェー市民の呼び込みにはそれほど苦労しないだろうが、これから時間をかけていかに国際的な話題を呼び、「クリスチャンサン」という町に潤いをもたらすか。

世界のアート愛好家が、「オスロやベルゲンは見たから、次はクリスチャンサンへ行こう」という発想がされるようになったら、億万長者はこの町に最高の贈り物をしたことが証明されるだろう。

ノルウェーの画家Gunnar S. Gundersenによる『Komposisjon』(1965) 写真:Kunstsilo
ノルウェーの画家Gunnar S. Gundersenによる『Komposisjon』(1965) 写真:Kunstsilo

デンマークの画家Asger Jornによる『Tolitikuja』(1645)
デンマークの画家Asger Jornによる『Tolitikuja』(1645)

ノルウェーの画家Reidar Aulieによる『Tivoli』(1935) 写真:Kunstsilo
ノルウェーの画家Reidar Aulieによる『Tivoli』(1935) 写真:Kunstsilo

ノルウェーのヴィジュアルアーティストMarianne Heskeによる『Gjerdeløa』(1980) 筆者撮影
ノルウェーのヴィジュアルアーティストMarianne Heskeによる『Gjerdeløa』(1980) 筆者撮影

クンストサイロ

Kunstsiloはノルウェー語の発音で「クンストシロ」、英語の発音で「クンストサイロ」。ノルウェー語の「クンスト」(kunst)は英語の「アート」を意味する。

北欧モダニズムの世界最大のコレクションであるタンゲン・コレクションと常設コレクションを収蔵。2015年、ニコライ・タンゲン氏が自身のアートコレクション1000点以上を故郷のクリスチャンサン市に寄贈した。オッデロイヤという場所にある1935年製の古い穀物サイロが、理想的な展示会場として提案される。2019年に着工され、2024年春、市中心部の海沿いの新しい文化地区のど真ん中に一般公開される。官民パートナーシップによる出資で実現された。

新館の敷地面積は8500平方メートルで、そのうち3300平方メートルが展示スペースとなっている。最上階には展示ホール、バー、レストランがあり、ミュージアムショップも併設される。

タンゲン・コレクション、旧ソーランド美術館コレクション、クリスチャンサン写真ギャラリーの3つの常設コレクションを管理し、合計7500点以上の作品を収蔵している。タンゲン・コレクションには5500点以上の1920年からに至るまでの北欧の現代美術品が含まれる。5月11日にオープンし、「Nordic Passions(北欧の情熱)」と題されたオープニング展と「タンゲン・コレクション」を目玉とし、1900年代の700点以上の作品が展示される。

公式HP https://www.kunstsilo.no/en

北欧・国際比較文化ジャーナリスト|ノルウェー国際報道協会役員

あぶみあさき。オスロ在ノルウェー・フィンランド・デンマーク・スウェーデン・アイスランド情報発信15年目。写真家。上智大学フランス語学科卒、オスロ大学大学院メディア学修士課程修了(副専攻:ジェンダー平等学)。2022年 同大学院サマースクール「北欧のジェンダー平等」修了。ノルウェー国際報道協会 理事会役員。多言語学習者/ポリグロット(8か国語)。ノルウェー政府の産業推進機関イノベーション・ノルウェーより活動実績表彰。著書『北欧の幸せな社会のつくり方: 10代からの政治と選挙』『ハイヒールを履かない女たち: 北欧・ジェンダー平等先進国の現場から』SNS、note @asakikiki

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