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【大河ドラマ鎌倉殿の13人】源頼家の蹴鞠三昧を北条泰時が戒めた納得の訳

濱田浩一郎歴史家・作家

鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝の死(1199年)をうけて、その後継者となったのは、子の源頼家でした。しかし、『吾妻鏡』(鎌倉時代後期に編纂された歴史書)には、頼家が蹴鞠に凝る様が描かれています。

同書の建仁元年(1201)7月6日条には、幕府の御所において、夕方の幾分涼しい頃を見計らって、百日の蹴鞠を始めたことが記されています。同年9月にも蹴鞠をしていますが、それは「この間、政務を擲(なげう)ち」(前掲書)と評されるほどでした。

権力者が蹴鞠に耽ることは「バカ殿」の象徴のようにかつては思われていました。が、昨今はそうした論調はどちらかと言えば退潮気味で、蹴鞠に熱中することは悪くないという見解がみられるようになりました。蹴鞠は、公家と交流する上で大切なもの(教養)であり、政治活動の1つだというのです。

この時、蹴鞠に熱中する頼家に苦言を呈した男がいました。北条泰時です。泰時は頼家に直に文句を言ったわけではありません。頼家の側近・中野能成に次のように言ったのです。

「蹴鞠は趣きが深いものですので、夢中になるのも分かります。が、8月の台風で、鶴岡八幡宮の宮門は倒れ、国土は飢饉となっております。そうした時に、わざわざ、都から蹴鞠の名手を呼び寄せられました。一昨日には、月星のようなものが天から降ってくるという怪異現象が起きています。その事を天文博士に占わせて異変でなければ、蹴鞠をすれば良いのではないでしょうか。

頼朝公が生きておられた建久年間、頼朝公は百日の間、毎日、浜に出ることを決めておられたが、天文博士からの天変が現れたとの告げにより、それを中止され、世上の無事を祈る祈祷を命じられました。それが今ではどうでしょう。貴方(中野)は頼家様のそば近くに仕えている身。何かの折に諫言されてはどうでしょう」(前掲書・9月22日条)。

中野は頷いたようですが、頼家に諫言することはとうとうなかったようです。『吾妻鏡』は北条氏を美化し、頼家を暴君または無能な君主として描いているとされます(この逸話もその類なのかもしれません)。

泰時も、蹴鞠を全否定しているわけではありません。蹴鞠をするのは大いに結構。しかし、時節を弁えて、やるべき事をやってから蹴鞠をすべしと言っているのです。蹴鞠は大切な教養であるが、政務を擲つほど熱中するのは良くない。また時節を弁えなければいけない。そうでなければ、それは暗君だとする認識が鎌倉時代にあったのでしょう。

歴史家・作家

1983年生まれ、兵庫県相生市出身。皇學館大学文学部卒業、皇學館大学大学院文学研究科博士後期課程単位取得満期退学。兵庫県立大学内播磨学研究所研究員、姫路日ノ本短期大学講師、姫路獨協大学講師を歴任。『播磨赤松一族』(KADOKAWA)、『北条義時』『仇討ちはいかに禁止されたか?』(星海社)、『家康クライシスー天下人の危機回避術ー』(ワニブックス)ほか著書多数

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