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【戦国こぼれ話】豊臣秀吉は公卿の落胤?天皇の落胤?それとも日輪から誕生したのか?謎の真相に迫る!

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
(写真:GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート)

■怪しい出生譚

 今でも有名人でさえ、実の父母がよくわからないということがあろう。戦国時代の場合、父母がわからないなどは、そんなに珍しいことではない。明智光秀も父母の名前は不明である。

 豊臣秀吉は農民の子だったといわれているが、昔からそれ以外にもさまざまな説が取り沙汰されてきた。秀吉の出生にまつわる謎は実に多い。いずれも真偽不明のきわどい説であるが、はたして真相はいかに?

■父がわからなかった秀吉

 豊臣秀吉の出自については、実に謎が多く、父すらもわからなかったという。

 秀吉は、尾張国蜂須賀郷蓮華寺(愛知県武豊町)の僧が女と交わり、その女は子を宿した。女は子を宿したまま筑(竹)阿弥に嫁ぎ、子(=秀吉)を産んだという(『尾州志略』)。この説によると、秀吉は僧侶の子だったことになる。

 秀吉は野合(正式な結婚をせず男女が交わること)により誕生したという説もあり、母「なか」(大政所。秀吉の実母)は2度も再婚したとも伝わる(『平豊小説』)。今のように婚姻届のない時代。性に対しては、おおらかだったのか?

■公卿落胤説

 「公卿落胤説」もある。秀吉の母「なか」は、持萩中納言なる公家の息女であったという説がある。

 あるとき持萩中納言は罪を犯し、尾張国村雲(名古屋市昭和区)に配流となった。持萩中納言が亡くなると、妻と2歳の息女が残った。この息女が、「なか」である。

 成長した「なか」は木下弥右衛門と結婚し、2人の間に生まれたのが秀吉だった。「なか」が公卿の血筋を引いていたので、秀吉は公卿の落胤となる(『東国太平記』)。

■天皇落胤説

 続けて「天皇落胤説」を取り上げよう。秀吉は正親町天皇の子であり、陽光院(誠仁親王)と兄弟であったという。つまり、秀吉は後陽成天皇と兄弟だったのだ(『嬰嬰筆話』)。

 大村由己(秀吉の御伽衆)の『秀吉事記』には、公卿落胤説と天皇落胤説の折衷した説が提示されている。由己は秀吉に近侍しており、同書の記事は比較的信頼が置けるといわれている。

 しかし、この説は秀吉が自身を貴種(天皇家の血を引くこと)としたい意図を汲んで執筆されたと考えられ、今では否定されている。

■日輪受胎説など

 次は、ユニークな「日輪受胎説」である。

 小瀬甫庵『甫庵太閤記』には、「あるとき母が懐に日輪が入る夢を見るとすでに懐妊しており、こうして秀吉が誕生したので童名を『日吉丸』とした」と記されている。こういうことがあり得るはずがないので、単なる甫庵による創作と考えて間違いない。

 「あやしの民説」も興味深い。竹中重門(半兵衛の子)の『豊鑑』には、次の通り書かれている。

・「秀吉は尾張国に生まれ、「あやし」の民であった」

・「(秀吉は)郷の「あやし」の民の子であったので、父母の名もわからない。一族についても、同じである」

 秀吉の出自はいろいろな説があるが、重門は秀吉を「あやし」つまり得体の知れない人物の子だったと明言しているのだ。

 『日本耶蘇会年報』には、秀吉が薪拾いをしていたとあり、安国寺恵瓊の書状には、秀吉が物乞いであったとはっきりと記されている。いずれにしても、秀吉はかなり貧しかったようだ。

■単なる創作に過ぎない秀吉の出生譚

 ほかにも「織田信長の同朋衆・筑阿弥の子説」「木下弥右衛門の子説」など諸説あるが、未だに決定的な説は出ていない。

 秀吉の出自を探るには、編纂物などの二次史料の荒唐無稽な説を退け、より確かな史料的根拠を探す必要がある。しかし、現実には良質な史料に恵まれていないこともあり、少なくとも上記の説については、すべて根拠のない妄説とすべきである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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