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明智光秀の出身地は、可児市なのか? それとも恵那市なのか?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
明智光秀。(提供:アフロ)

 今は戸籍があるので、誰がどこで生まれたのかはだいたいわかる。しかし、戦国時代は戸籍がなかったので、どこで生まれたのかわからない戦国武将もいる。そのひとり明智光秀の出身地について考えてみよう。

 天正10年(1582)6月、明智光秀は本能寺で主君である織田信長を死に追いやった(本能寺の変)。その直後の山崎の合戦で、光秀は羽柴(豊臣)秀吉に敗れ、逃亡する途中で土民に討たれたのである。

 ところで、明智氏の出身地については謎があり、さまざまな説が提起されている。そのうち、光秀が土岐氏庶流の土岐明智氏の流れを汲むことを前提として、2つの説が有力視されている。

 1つ目は、岐阜県恵那市明智町で光秀が誕生したという説である。恵那市明智町には光秀にまつわる史跡が数多くあり、光秀が誕生したという明知城址(別名・白鷹城)がある。

 そのような事情もあって、地元では今も光秀を顕彰し、「光秀祭り」が催されている。明知城は典型的な平山城で、遠山十八城のひとつといわれている。現在は、岐阜県の指定文化財になっている。

 しかし、恵那市明智町は遠山明智氏と関係のある地で、光秀の出身といわれる土岐明智氏に結びつけられないと指摘されている。何より明知城は、遠山明智氏の居城である。

 2つ目は、岐阜県可児市瀬田長山で光秀が誕生したという説である。岐阜県可児市瀬田長山には、かつて明智荘という荘園があり、明智城址(別名・長山城)も残っている。

 明智城址の麓の天竜寺には、光秀の位牌や明智氏歴代の墓所があり、今も光秀の法要が催されている。光秀が土岐明智氏の流れを汲むならば、可児市瀬田長山で誕生した可能性がある。

 問題は、光秀が本当に土岐明智氏の流れを汲むのかということである。現時点では、光秀が土岐明智氏の流れを汲むという証拠は、系図類に限られている。しかも、光秀の父の名は一致せず、一次史料にもあらわれない。

 光秀の出身地については、このほか岐阜県大垣市、滋賀県多賀町などの説もある。いずれにしても決め手に欠けるので、可児市か恵那市なのかも断定できないだろう。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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