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阪神・淡路大震災から28年 改めて思う助け合いと普段の生活の大切さ

饒村曜気象予報士
地震発生直後の神戸市長田区付近の火災と地震発生時を示す神戸気象台地震計室の時計

阪神・淡路大震災の発生

 今から、28年前の平成7年(1995)1月17日5時46分、阪神・淡路大震災を引き起こした兵庫県南部地震が発生しました。

 当時、筆者は神戸市中央区中山手通りにあった神戸海洋気象台(現在は神戸地方気象台となり移転)に隣接する宿舎で寝ていました。

 神戸海洋気象台の予報課長として神戸に赴任していたからです。

 上下動の揺れで目がさめた後、身体が横に叩きつけられる感じの揺れを感じました。

 気象台は、神戸市沿岸部に細長く東西に延びる「震度7」の領域が切れているところにあり、「震度6強」でした(図1)。

図1 阪神・淡路大震災における震度7の分布
図1 阪神・淡路大震災における震度7の分布

 当時の神戸海洋気象台予報課長は、大災害発生時には神戸海洋気象台災害対策副本部長になると決められていましたので、すぐに駆け付ける必要がありました。

 地震と同時に停電となりましたが、隣接する気象台がすぐに予備電源に切り変わったので、その光が部屋に差し込んできました。

 地震により多くのインフラが停止しましたが、気象台の予備発電機は最新型で、床にボルト付けしてあったため、大地震であってもすぐに機能しました。

 気象台の光が部屋にきていたので、その光でただちに背広を着、ネクタイを掴み、ラジオを聞きながら気象台に駆けつけました。

 津波の心配があるにしても、神戸ではこれほど大きな被害を受けるとは思わなかったため、私の職責として防災機関や報道機関等との対応が一日中あると考えたからです。

 しかし、防災機関や報道機関等との対応はほとんどありませんでした。

 それどころでない大災害が発生していたのです。

 1月17日は満月で、月の入りが6時52分でしたが、地震発生当時は曇でした。

 また、日の出も7時6分であるため、周囲は真っ暗でした。

神戸市長田町付近の火災

 兵庫県南部地震発生後、6時すぎに高台にある神戸海洋気象台の南西約2~3キロメートル先の長田区付近の真っ暗闇の中に2つの火の手が見えました。

 露場にあって使われていない地震で傾いた百葉箱ごしにです(タイトル画像参照)。

 普段なら町の明かりがある長田区付近でしたが、消防車のサイレンの音も聞こえず、静寂の暗闇の中、火の勢いが強くなっているという不気味な状況でした。

 夜が明けても、長田区付近の火事の勢いは衰えず、火元も増えているように見えました。煙は南から東の風によって私のいる位置から見て左から右へ流れていました。

 また、気象台の東側の灘区付近にもいくつかの火事の煙が見えました。

 午後になると、風が北風に変わり、長田区付近の火災の煙の流れは私のいる位置から見て右から左へと変わっています。

 気象台付近には長田区付近の火災のものと思われる白い燃えかすが雪のように多数降ってきましたが、午前中に一時黒い燃えかすが降っていたときとは、あきらかに火災の状況が変化したと感じました。

 図2は当時、気象庁で作成していたレーダーエコー合成図ですが、長田区のすぐ南に1時間に10ミリメートル以上の雨に相当する記号があります。

図2 レーダーエコー合成図(平成7年1月17日12時)
図2 レーダーエコー合成図(平成7年1月17日12時)

 これは、雨が降っているのではなく、主として大火によって生じた煙や巻き上げられたほこりや燃えかす等が気象レーダーに映ったのです。

 日本の大火は、これまで、ほとんどといっていいほど強風下での大火です。

 阪神・淡路大震災の大火は、空気が乾燥しているといっても、風がそれほどでもない(最大風速が毎秒6.8メートル)のに、全国の1年間の火災焼失面積の4割に相当する面積が焼けています。

 もし風が強ければ、関東大震災の10分の1程度といわれている延焼速度は、もっと速くなり、神戸の市街地がほとんど丸焼けになった可能性があったのです。

日頃と同じ通常業務の遂行

 神戸海洋気象台が、震災の中で日頃と同じ通常通りの業務を遂行できたのは、先人たちが日々の行動の中に積み上げてきた防災対策のおかげです。

 前述した予備発電機と同様に、観測機器やデータ処理装置等の重要機器は、床にボルト付けされたり、紐で固定されていました。

 一部の機器は、ボルトが外れたり、紐が切れて落下しましたが、地震の衝撃がボルトや紐で軽減されてからの落下であり、無傷か、簡単な修理で直りました。

 予備の通信手段が用意されており、日頃からの訓練も行われていましたし、いざというときの段取りも予め決められていました。

 気象台の建物は、のちに移転しなければならないほどの被害を受けましたが、定期的なメンテナンスによって、観測や予報を行う現業室だけは、室内が散乱したものの業務遂行が可能でした。

 地震計室に掛けてあった時計は、地震の強い衝撃で止まっていますが、地震計自体は正常に作動し、地震波を正確に記録しています(タイトル画像右下、図3)。

図3 神戸海洋気象台の電磁式強震計記録
図3 神戸海洋気象台の電磁式強震計記録

 そして、この記録は直ちに電子媒体で多数の複製が作られ、早急に行われた防災対策の見直し等に貢献するため研究機関に提供されています。

31人の「その時」

 地震から約20日後の2月8日にNHKラジオの横山義恭チーフアナウンサーと上田良夫チーフディレクターの取材を受けました。

 なんとしても被災された方々の声を聞き、それを放送で伝えたいということで機材を担いで徒歩で取材を続けているとのことでした。

 取材は簡単な打ち合わせのあと、約20分間にわたって、テープレコーダーを回しながら行われ、2月15日のラジオ放送では、取材された内容がほとんどカットされずにそのまま放送されました。

 横山氏は、「被災された方々のためにも、後世の人たちへの貴重な証言としても文章にして残しておくことは意味ある事」と考え、1月30日から3週間にわたって放送された「証言・阪神大震災」という放送内容について証言集を刊行しています。

 この証言集には、筆者を含めた31人のインタビューが、放送内容に忠実に収められています。

(横山)私は今、神戸市の中央区の中山手通りにあります神戸海洋気象台におじゃましています。ここは小高いところにあって、南を向きますと、神戸港が一望出来るという位置にあるんですが、予報課長の饒村曜さんにお話を伺います。饒村さんは地震のときはどちらにいらしたんですか。

(饒村)気象台に隣接しております宿舎におりました。

(横山)あれから3週間近く経ちますが、初動のときと、順次気象台の方の思いというのは変わってきたと思うんです。初めのころは緊張もあったでしょうし、また疲れもずいぶん残ったり、ご自身のお宅も被害に遇った方も多かつたと思うんですけれども。

(饒村)幸いなことに、気象台の職員、及びその家族に死傷者がいなかったので、それで多分皆さん一致団結してやれたんでしょうけれども、ただ、多くの方が亡くなっておりますし、当たり前の仕事が当たり前に出来るというのはすごいなという感じが、今、改めてしております。

(横山)日常の業務が滞りなく出来るということですか。

(饒村)そうですね。多分どこも同じだと思うんですが、普段でしたら、例えば簡単に車で物を取りに行ける。それが今は、大渋滞に巻き込まれて、それ一つでさえ大変な作業であるというように、これは気象台だけではないんでしょうけれども、ほんのちょっとしたことにも、皆さん非常に苦労しながら、いろいろな活動をされている。これが私の感じでございます。…。

(横山)助け合っていると。

(饒村)そうですね。助け合いですね。役に立つ情報はみんなに伝えると。逆にみんなからも役に立つ情報を貰おうということで、助け合いがあちこちに出来ているというのが私の印象です。

引用:横山義恭(平成7年(1995年))31人の「その時」証言・阪神大震災(彩古書房)

 あらためて読んでみると、助け合いと普段の生活が重要であったことを思い出しました。

日ごろの行動しかとれない

 阪神・淡路大震災を経験して、明日が来るのはあたりまえではないとの感を強く持ちました。

 仮に明日が来ても、今日ではありません。

 今日簡単にできたことが、明日はできないという例を数多く見ました。

 少し前のところで「日頃と同じ通常業務の遂行ができた」と書きましたが、「日頃と同じ通常業務の遂行しかできなかった」と言うことでもあり、「その日頃と同じ通常業務が良かった」とも言えると思います。

 いくら準備していても、このような桁違いの自然の猛威に対しては、特別な行動はおろか、日頃の行動でさえ満足にできないという事実があります。

 しかし、普段から、最悪の状態に備え、その対策を日々の行動に組み込んでおくことが、綱渡りであっても、綱から落ちないで渡ることができた経験であったと思います。

 そして、このことは、いかに日頃の行動が大切かということの裏返しであると思います。

 日頃から行っている行動は、災害時に拡大・充実して行動がとれますが、日頃行っていない行動は、災害時には、なかなか出来ません。

 例えれば、日頃の「1」の行動は10倍すれば「10」の行動に変わりますが、日頃の「0」の行動は10倍しても「0」ということではないでしょうか。

 「人生を楽しむのも、防災対策をやるのも、今日を一生懸命に生きるしかない」というのが、私の実感です。

タイトル画像の出典:平成7年(1995)1月17日に筆者撮影。

図1、図2、図3の出典:饒村曜(平成8年(1996年))、防災担当者の見た阪神・淡路大震災、日本気象協会。

気象予報士

1951年新潟県生まれ。新潟大学理学部卒業後に気象庁に入り、予報官などを経て、1995年阪神大震災のときは神戸海洋気象台予報課長。その後、福井・和歌山・静岡・東京航空地方気象台長など、防災対策先進県で勤務しました。自然災害に対しては、ちょっとした知恵があれば軽減できるのではないかと感じ、台風進路予報の予報円表示など防災情報の発表やその改善のかたわら、わかりやすい著作などを積み重ねてきました。2024年9月新刊『防災気象情報等で使われる100の用語』(近代消防社)という本を出版しました。

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