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[高校野球・あの夏の記憶]ミラクル満塁弾で優勝の佐賀商。2年生エース・峯謙介は全6試合完投

楊順行スポーツライター
1994年は甲子園70周年。当然、リニューアル前です(写真:岡沢克郎/アフロ)

佐賀商 000 003 014=8

樟 南 030 001 000=4

 いまから30年前の1994年、夏。甲子園の決勝は、史上初めて九州勢同士の顔合わせとなった。福岡真一郎—田村恵(元広島)のバッテリーを擁する樟南(鹿児島)と、佐賀商。樟南は2回、3連投となる佐賀商の2年生エース・峯謙介をとらえて3点。佐賀商が6回表に追いつくが、その裏の樟南はスクイズで1点勝ち越す。佐賀商はふたたび8回に同点に。そして迎えた9回だ。 

「次のイニングに備えて、キャッチボールをしていたんです。だから、打球は見ていません。観客の大歓声で、“あ、ホームランなんだ”とわかった感じです」

 エースの峯に、当時を回想してもらったことがある。なんでも、その瞬間の記憶は曖昧なのだという。

 9回の佐賀商は、ヒットで出た峯がバントで二進し、後続のヒットで1死一、三塁。代打・林淳一郎の3球目、佐賀商・田中公士監督はスクイズを仕掛けた。だが樟南ベンチはウエストし、空振り。三走の峯がはさまれる。チャンスはついえたか——。ところが、捕手・田村の送球が峯に当たり、佐賀商は命拾いした。

 林四球、後続の三振で2死満塁の場面だ。二番・西原正勝への福岡の初球はストレート。低め、悪いタマじゃない。だが、ストレート1本にしぼっていた西原が金色のバットをフルスイングすると、打った瞬間佐賀商ナインがベンチを飛び出すほどの当たりが左中間スタンドへ消えた。優勝を決める、華麗なグランドスラムだった。

三塁走者なのに「キャッチボールをしていた」?

 このときの峯は三塁走者だから、実はベンチ前でキャッチボールをしていたわけじゃない。打球の行方を見ていないのは、2死だから当たった瞬間にスタートを切ったからかもしれないが、それにしても「キャッチボールをしていた」とは記憶違いもいいところ。それほど、夢見心地の優勝なのだろう。

 小学生時代、甲子園で活躍する佐賀商を見てあこがれた。のちに駒大苫小牧を率い、2004〜05年と夏を連覇する香田誉士史らの現役時代だ。

 だが、いざ入学してみると練習は厳しかった。電車通学の峯が家に帰ると、夜の11時を過ぎている。それでも翌日は、朝練習のために6時前の電車に飛び乗る。1年の新チームからエースとなったが、その県大会は初戦で鳥栖商に敗れた。94年春もベスト4止まりで、夏の佐賀大会はノーシードだった。

「3年間のうち1回は甲子園に行けると思って佐賀商に進んだわけですから、その夏は手応えどうこうよりもやるしかない、そういう気持ちでした」

 第3シードの佐賀東戦、峯が鋭いカーブなどで相手を1点に抑え、コールド勝ちすると、チームは勢いに乗った。準々決勝の致遠館戦は、同点に追いつかれた6回に登板した峯が、後続を抑える間に追加点。龍谷との準決勝は3安打で完封すると、決勝の相手は鳥栖商だ。

 前年秋だけではなく、前年夏もやはり初戦で当たって敗れている相手。そのときのエース・牛島浩史はこの夏も、ノーヒット・ノーランを達成するなど好調を続けている。その牛島に抑えられ、9回裏の攻撃を迎えた場面で3対4と1点差だ。だがここで、2年の山口法弘が逆転サヨナラ打、「あれがすべての始まりでした」と峯は振り返る。

 甲子園では、開幕試合のクジを引いた。「下馬評にもなにも挙がっていないチームだし、気負いはなかったですね」という浜松工(静岡)との対戦を6対2で突破すると、次の相手は関西(岡山)。プロ注目の2年生左腕・吉年滝徳(元広島)がいるチームだ。峯はいう。

「同じ2年生で、ここだけは負けたくないと意識しました。僕は、2日連投だと2日目のほうが調子がいいタイプ。1回戦から試合間隔が空いたので、前日には意図的に多い球数を投げるなど、自分なりに調整したのが成功しました」

 と、1失点完投だ。変化球は、スライダーとカーブ。いまのように、スプリットだツーシームだという多彩さはない。ストレートも130キロ台中盤だ。だが、コントロールにだけは自信があり、以後も那覇商(沖縄)、北海(南北海道)、佐久(現佐久長聖・長野)と、一人でマウンドを守った。

 だが5試合ですでに586球を投げ、3連投となる決勝は、「さすがに限界でした。思ったところに投げられず、一番きつかった」(峯)。

 制球の定まらない2回、4安打を集中されて3点を失う。だが、小雨がぱらつき始めた6回表。そこまで2安打に抑えられていた打線が、バント安打から1死後の3連打で3点を返すと、峯も息を吹き返したようだった。スライダーの切れ、制球が戻ってくる。そして、同点の9回だ。田中監督の述懐。

「1死満塁で、一番・宮原(俊次)の打席。技術的にも性格的にも、もっとも信頼できるバッターが三振で2死。次の西原は、甲子園にきてからはともかく、県大会は1割台の大不振でしたから、ああ、ダメか……と。それが初球、西原の好きな低めにストレートがきましてね、ボールが飛んでいった瞬間に、“ああ、これはホームランだ”と思いました。同時に、ホームランなら優勝だぞ、私なんかが優勝していいのかな……という思いが頭をよぎりました。これは私なりの感覚ですが、樟南に最初に3点取られたものの、相手が“早く試合を終わりたい”というムードになっている気がしたんです。相手が勝ちを急いでくれればチャンスはある、と思っていましたが、その通りになりました」

 9回裏の峯は、樟南を三者凡退。2年生として全試合完投の優勝投手は、65年三池工(福岡)の上田卓三(元阪神ほか)以来のことだった。ただ、と峯。

「3年の夏は、佐賀の決勝で龍谷に負けたんです。投げ合った小崎(喜之)は、小学校時代からのライバル。使っていたグラブを彼に渡して、“オレの分まで頑張ってくれよ”と気持ちを託しました」

 その95年夏、龍谷は甲子園の初戦で敗退したが、小崎の左手には峯のグラブがあった。やはり開幕戦から登場した佐賀北が、これもミラクル満塁弾で優勝を飾るのは2006年夏のことである。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は63回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて54季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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