不倫=絶対悪、同性への愛=禁断ではない現代、「卍」に挑む。性癖の奥にある異端者の悲しみについて
女性同士の性愛に焦点を当て、いまだ「禁断」といった背徳的なイメージの強い谷崎潤一郎の小説「卍」。
1928年に発表されてから、これまで何度も映画化されてきた同作が、令和のいま再びリメイクされた。
となると、これまで何度も映画化されてきた原作を、なぜいま再び描くのか?いま、改めて映画化する意味は果たしてあるのか?
そう疑問を抱くことはある意味、素直な反応かもしれない。
でも、いまだから「卍」なのかもしれない。むしろいまこそ「卍」ではなかろうか。
令和に届けられた「卍」を前にすると、そんな感想を抱く。
禁断はもはや過去で、「卍」という物語の世界が、いまという時代にひじょうにフィットしていることに気づかされる。
いま、「卍」と向き合って何を考えたのか?
W主演を務めた新藤まなみと小原徳子に続き、井土紀州監督に訊く。全八回。
『異端者の悲しみ』ということに自分はビビッとくるところがある
前回(第七回はこちら)まで、いろいろなことを訊いてきた。
では、改めて「卍」と向き合って、どのようなことを考えただろうか?
「自分が谷崎の文学に惹かれる理由が垣間見えたというか。
谷崎潤一郎という作家の中にある一番の性癖部分、端的に言うとマゾヒズムですね。
ちょっと恥ずかしいですけど、そこに自分はビビッとくるものがある。
だから、『卍』と改めて向き合いたかったのだなと思いました。
谷崎の文学は、好きな人は好きだけど、ダメな人はダメ。好き嫌いがはっきり出ると思うんです。
それはマゾヒズム的要素に触れたときに、興味があるか、それともまったくないかということにつながっている気がする。
そう考えると、作り手を選ぶというか。
おそらくノーマルな性的指向だと、谷崎は手が出しづらい。そもそもわからないところがあると思う。
マゾヒズムというとどうしてもSM世界になって、ろうそくをたらされたり、鞭でうたれたりする側みたいなイメージになってしまうけど、それだけじゃない。もっとその人間の奥底にある精神的なマゾヒズムに谷崎の文学は迫っているところがある。
で、精神的なところにあるマゾヒズムというのは、やはり異形で。アウトサイダー的なメンタリティだと思うんです。
谷崎が初期に発表した『異端者の悲しみ』という短編小説がある。これは自伝とされているんですけど、このタイトルに集約されているというか。
まさに『異端者の悲しみ』ということに自分はビビッとくるところがあって、今回の映画『卍』を作る上でも、そこをすごく大事にしたかったんですよ」
チャンスがあったらまた谷崎の文学に挑戦したい
『卍』を経て、谷崎文学の魅力をより理解した気がするという。
「先ほど言ったように、アウトサイダー的なメンタリティというのは、今回の『卍』に限った話ではなくて、自分の作品作りにおいてひじょうに大事にしてきたことなんです。
そう考えると、際限がなくなるというか。ほかの谷崎の文学ももっともっと描いてみたくなる。
谷崎文学を映画化できないか、すごく意欲がわいてくる。
たとえば、『春琴抄』ですよね。最後は盲目の春琴のことを思って、献身的に支えてきた丁稚の佐助が自らの両目を針で突いて失明する。
この作品とか、いまの時代に映画化したら、どうなるのかと考えてしまう。
ここまで極致でなくていいので、宿命の女に身も心も溺れて滅びてゆくような人たちの話を描き続けられたらいいなと思っています。
チャンスがあったらまた谷崎の文学に挑戦したいですね」
(本編インタビュー終了)
映画「卍」
監督:井土紀州
脚本:小谷香織
出演:新藤まなみ 小原徳子
大西信満 黒住尚生 明石ゆめか ぶっちゃあ(友情出演)/仁科亜季子
全国順次公開中
筆者撮影以外の写真はすべて (C)2023「卍」製作委員会