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【光る君へ】一条天皇と藤原定子が再び会えることになった理由

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
京都御所 承明門。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「光る君へ」では、一条天皇と藤原定子が再び会えることになった場面が描かれていた。実現には、藤原詮子(一条天皇の母)と藤原道長の勧めがあったので、その辺りについて考えることにしよう。

 藤原定子が一条天皇と結ばれたのは、正暦元年(990)1月のことである。一条天皇のほうが4歳年下だったが、2人は深い愛情で結ばれていたといわれている。そんな2人の仲を引き裂いたのが、定子のきょうだいの伊周・隆家が関与した長徳の変である。

 長徳2年(996)、伊周・隆家兄弟の従者が花山法皇に矢を射た。むろん矢は外れたものの、これが大問題となった。激怒した一条天皇は、2人を左遷することにしたのである。その際、2人を捕縛するため、検非違使が定子の邸宅に派遣された。

 検非違使が邸宅を捜索したとき、その手法がかなり荒っぽかったという。あまりのことにショックを受けた定子は、発作的に髪を切った。この髪を切った行為は、出家とみなされたらしい。また、落飾した中宮の先例がなかったので、定子を内裏に迎え入れることは極めて困難になったのだ。

 この頃、すでに定子は一条天皇の子を宿していた。定子が子の脩子内親王を出産したのは、同年12月のことである。妊娠の期間は、12ヵ月に及んだといわれている。定子は一条天皇と会うことはできなくなったものの、2人が会いたいと思ったのは、当然のことだろう。

 2人のことで心を痛めたのは、一条天皇の母の詮子だった。詮子と道長は、一条天皇に定子を迎え入れるように提案したといわれている。いずれにしても、内裏に迎え入れるのは困難だったので、清涼殿から距離のある中宮職の御曹司(職御曹司)を定子の御所に決めたのである。

 場所は大内裏の内にあり、内裏の外に所在していたので、苦肉の策だったことがうかがえる。その後、職御曹司が遠かったので、別殿を近くに設けることになった。一条天皇は人目を避けるため、夜になってから別殿に通い、朝になってから帰ってきたという。

 このことを知った藤原実資は、日記『小右記』の中で不満をもらした。いかに2人の愛情が強かったとはいえ、先例のないことだったからだろう。それゆえ一条天皇も注意していたのは、先述のとおりである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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