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織田信長に抜擢されたが、無念にも戦死した2人の武将とは?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
(提供:イメージマート)

 社長に抜擢されながらも、十分に活躍できず会社を去る者がいるかもしれない。織田信長は版図を拡大するたびに、家臣を抜擢することがあったが、無念にも戦死する者がいた。そのうち2人を紹介することにしよう。

◎塙直政(?~1576)

 直政は信長に馬廻として仕え、各地を転戦した。永禄11年(1568)、信長が足利義昭を推戴して上洛すると、これに付き従った。その後、直政は鉄砲調達を命じられたり、京都支配の一端に関わったりしたので、その重用ぶりがうかがえる。

 天正2年(1574)、信長は直政を山城守護に任じ、その後、大和守護の兼務を命じた。翌年の長篠の戦いには、直政も出陣した。直政は続く越前一向一揆の討伐にも向かい、大いに軍功を挙げた。天正4年(1576)、信長は直政に大坂本願寺攻めを命じたのである。

 一揆勢が海路から兵糧を搬入しようとしたので、直政は信長の命により、これを阻止しようとした。同年5月、直政は三津寺の一揆勢を攻撃したが、無念にも戦死したのである。直政の戦死を知った信長は激怒し、塙一族を探索したうえで捕縛したのである。

◎万見重元(?~1579)

 重元の出自は謎が多いものの、信長の小姓だったのはたしかである。重元は諸大名や家臣との取り次ぎ役を担当したほか、奉行としての役割を果たすとともに、合戦があると検使を務めたことがわかっている。信長の側近として重用されていたのだ。

 天正6年(1578)に三木合戦(羽柴秀吉と別所長治との戦い)がはじまると、重元はほかの諸将とともに、検使として秀吉のもとに派遣された。検使の役割には、戦況の報告などがあった。同年には荒木村重が信長に対して反旗を翻した(有岡城の戦い)。

 村重が信長に謀反を起こすと、重元らが糾問使として有岡城に遣わされた。村重は謀反の意がないと説明したが、直後に兵を挙げたのである。重元は諸将とともに鉄砲隊を率いて有岡城を攻撃したが、戦闘の際に塀を乗り越えようとして、敵に長刀で突き殺されたという。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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