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22年間かけて袴田事件を追った執念の映画『拳と祈りー袴田巖の生涯』笠井千晶監督に聞いた

篠田博之月刊『創』編集長
『拳と祈りー袴田巖の生涯』c:Rain field Production

2014年の釈放直後の密着映像などまさに圧巻

 袴田事件、そしてその当事者である袴田巖さんやひで子さんを追い続けた笠井千晶監督の映画『拳と祈り ―袴田巖の生涯―』が10月19日から渋谷のユーロスペースほかで全国公開される。

 22年間にわたって袴田さんらに密着してきたという笠井さんの執念が、この映画に大きな迫力をもたらしている。特に冒頭近くの2014年の巖さん釈放の映像など圧巻というほかない。

 静岡地裁で再審開始決定が出され、予想しなかった即日釈放という事態にひで子さんも弁護団も戸惑い、居合わせたテレビ朝日の車で移動したことで、その映像が当時、『報道ステーション』のスクープとして放送された。ところが、実はそこには笠井さんも一緒にいて、カメラを回していた。拘置所から出た車の中の混乱した様子や、その後のホテルでの巖さんの姿など貴重な映像だ。

笑顔のひで子さんc:Rain field Production
笑顔のひで子さんc:Rain field Production

 笠井さんはもともと地元の静岡放送の記者として袴田事件に関わるようになったというが、一時期、ひで子さんの所有するマンションに居住し、すぐ近くの巖さんとひで子さんが住むマンションに頻繁に出入りしていた。ひで子さんは、笠井さんを「娘みたいな存在」と表現している。

 そうした笠井さんだからこそ撮れた映像が今回の映画には満載だ。放送局に勤めた人がそこで撮った映像を素材にドキュメンタリー映画を制作するというケースは多いが、笠井さんの場合は、そうした例とは異なり、袴田事件を会社の仕事としてでなく個人として追いかけてきた。まさにその22年間の集大成が『拳と祈り ―袴田巖の生涯―』だ。

 笠井さんに制作の経緯などを聞いた。

笠井千晶監督(筆者撮影)
笠井千晶監督(筆者撮影)

撮影した映像は400時間にのぼった

――この映画の圧巻のシーンは、10年前の巖さんの釈放の時の映像ですが、それをどうやって撮影したかからお聞きします。当時、笠井さんは静岡放送を退社して中京テレビに勤めていたのですよね。

笠井 そうですね。ただ、あの撮影の仕事は完全プライベートでした。当時は中京テレビで働いてはいたのですが、名古屋のテレビ局ですから、静岡で起きた袴田事件はエリア外になるんですね。通常のニュースでは扱わないので、私は全て休みの日に自費で自分の機材で、会社とは全く別の活動として続けていました。

 そんなふうにして撮影した映像は400時間分にものぼり、私自身がディレクターとして関わった番組で少し使いましたが、基本的には私が個人として撮ったものとして、大事に持っていました。

 巖さんの釈放当日も休みをとって、会社には何も言わず撮影していました。静岡地裁で再審開始決定が出た後、ひで子さんと一緒に新幹線で東京に移動したのです。

 拘置所を出た車の中では助手席に座り、その後のホテルでは巖さんたちと同じ部屋に泊まっていました。ひで子さんの付き添いということで、釈放から翌日の朝までずっと一緒にいました。

 巖さんや弁護士さんたちと一緒だった車の中は実はすごい大混乱で、弁護士さんもあちこちからかかってくる電話対応に追われていましたし、巖さんも秀子さんも車酔いして吐いてしまったりして、私はお2人のケアをしながら合間でカメラを回してという感じでした。

――映画の冒頭のインパクトのあるシーンは、その釈放の時の映像と、巖さんが逮捕された後の、取り調べの音声ですね。映像がなく音声だけですが、とても効果的に使われていました。

笠井 あの音声そのものは、これまでも一部のテレビ番組で使われたりしていたものですが、48時間という膨大な長さで、そこのどこを切り取ってどう使うかというのは、オリジナルというか、工夫して使っています。映画の編集も私一人でやっています。

――笠井さんは、ひで子さんの所有するマンションに何年から何年までいたんでしたっけ。当時は静岡放送時代ですね。

笠井 2002年から2005年ですね。ひで子さんに出会って1カ月後ぐらいに、たまたま空きがあるというので入居することになりました。

 静岡放送に新卒で入って、袴田事件に関わることになったのですが、静岡放送は地元局で、事件当時はむしろ袴田巖さんを犯人視する報道をしていました。私が関わった頃には、冤罪の疑いが指摘されていたのですが、静岡放送はそういうスタンスでは積極的には報道していませんでした。私自身は冤罪ではないかという思いがありましたが、私の仕事について上司から「これは新人のよくわかってない記者がやったのだ」という言い方をされたこともありました。巖さんはクロだと言う方も社内にはまだいましたね。

 今回の映画では、静岡放送がアーカイブとして持っていた事件当時の映像を使っていますが、それは交渉して許諾を得たものです。静岡放送しか持ってない映像で、それまで映画に許諾したことがないと言われましたが、私が昔所属していたというご縁もあって、許諾いただきました。

 静岡放送時代は、まだ駆け出しの記者でしたし、ローカルのテレビ局というのは、ほとんどドキュメンタリー番組を作る機会はないのですね。ただ年に1本だけ、民間放送連盟賞というコンテストに応募するという形で作る機会がありまして、2004年に「宣告の果て~確定死刑囚・袴田巖の38年~」という番組を制作しました。この番組は2004年度の日本民間放送連盟賞報道番組部門最優秀賞をいただいています。

『拳と祈りー袴田巖の生涯』c:Rain field Production
『拳と祈りー袴田巖の生涯』c:Rain field Production

袴田事件に専念するためにテレビ局を辞めた

――冤罪の可能性を考え出したのはどういうきっかけからなのですか?

笠井 静岡放送の仕事で袴田事件を知ってから、自分で資料をダンボール何箱も集めて裁判記録も全部読み込んで、客観的に証拠とかもろもろ見て、これはやはり違うだろう、冤罪じゃないかと早い段階でそう思いました。

 今回のような映画を作るというのは、当時から、いつかそういう日が来れば…という将来の夢ぐらいに思っていましたが、具体的に取り組んだのは2014年に巖さんが釈放されてからですね。あの時、明確に、これはやるしかないと、はっきり強く思いました。

 当時は中京テレビに勤めていましたが、そこでは袴田事件の取材はできないので、一刻も早く辞めたいと思い立って、会社と交渉し、2014年末に契約を終了させていただきました。

 その後はフリーランスとして、浜松に5年ぐらいいた後、今は東京に拠点を置いています。その後も撮影を続け、いろいろお金を工面しながらようやく映画を完成させたということです。

 袴田事件については、2016年にNHKのEテレで放送された『待ちわびて~袴田巖死刑囚 姉と生きる今~』を制作し、2015年度ギャラクシー賞奨励賞をいただきました。また2018年に中京テレビで放送された『我、生還す~死刑再審「袴田事件」とDNA鑑定~』を制作、同年、日本テレビで放送された『我、生還す~神となった死刑囚・袴田巖の52年~』でも2018年度ギャラクシー賞奨励賞をいただいています。

 袴田事件以外では2017年に初の長編ドキュメンタリー映画として『Life 生きてゆく』という作品を公開しており、第5回山本美香記念国際ジャーナリスト賞をいただいており、今回の映画が長編ドキュメンタリー映画第2弾になります。

――映画がこの時期に公開となったのは、袴田さんの再審の動きなどを考えてそうなったのですか?

笠井 当初は去年の3月に完成と思っており、一昨年クラウドファンディングをやった時も公開は年明け3月とお伝えしていたのです。でも去年の3月に東京高裁で再審開始決定が出て確定となったので、思いがけず再審公判が始まりました。その判決を待って公開ということにしようと思い、完成を延ばしたんです。ひで子さんからも「ここまで来たら判決まで入った方がいいよ」と言っていただきました。結果的にこの10月公開ということになりました。

全部の映像をまず文字起こしした

――22年間撮り続けてきたということで映像素材は膨大だったでしょうね。

笠井 400時間ぐらいありましたので、映画で使ったのは本当にごく一部です。

 上映時間159分というのもドキュメンタリー映画としては長いとは思うんですが、それでも絞りに絞った結果です。

 私は400時間の映像を見ながら全部文字起こしをするので、地味な作業を延々と一人でずっとやってました。全部文字起こしをするというのは、私の作り方の基本で、映像が文字になることによって、どのファイルにそれがあるというのを素早く探せるのです。どの瞬間にどういう言葉があってどんな表情が撮れたのかというのを、自分自身で探しながら映像を繋いでいくという作業を考えると、遠回りなようですけれど、全て文字起こししておくのが一番効率的なのです。

――全体の構成についてはどう考えて編集されたのですか?

笠井 まずは1本太い縦軸として、巖さんが釈放されてから現在までの10年間を据えて、その縦軸が揺らがない程度に過去を徐々に明かしていくというような構成にしました。

――撮影を通して、ひで子さんや巖さんとも密に関わっていくわけですが、巖さんは人によって最初、拒否反応を示すこともあるでしょう。

笠井 私に対しては拒否とかいうのは一度もなかったですね。ひで子さんがいつも「笠井さんだよ」と巖さんに説明してくれますし、「きょうは笠井さんが留守番するからよろしくね」とか言ってくださっていましたから。

――巖さんは浜松の街を歩き回るわけですが、帰ってこなくてみんなが心配するシーンとか映画にも映っていますね。その後、支援の人たちが「見守り隊」として同行するようになるのですね。

笠井 「見守り隊」がつくようになったのは、2017年の夏に巖さんが散歩途中に石段から転げ落ちて怪我をして、そこから一人で行動するのはどうなんだろうということになったのです。

――巖さんがなかなか帰らなかった時も、ひで子さんは映画の中で「いつか帰ってくるだろうから」と言ってましたが、そういうひで子さんのおおらかなところが、いろいろなことがうまくいった要因のひとつですよね。ただ、映画に映っていた巖さんのケガを見たら、さすがに誰か付いていた方が…となりますね。

笠井 それを機に誰かが付き添いましょうとなったのですが、それまでは巖さんはいつも一人で自由に出歩いていました。

 今は巖さんの健康状態もあって、車で移動ということになっています。

ライフワークとも言える渾身の作品

――笠井さんと巖さん、ひで子さんの距離の近さというのがこの映画の特徴でもありますが、いつも一人でカメラを回しているわけですね。そういえば2014年の釈放直後の映像で、笠井さん自身が映りこんでいる場面がありますが、あれは誰が撮ったのですか?

笠井 あれは実は車のサイドミラーに映っている車内の様子を、私自身が撮っているのです。サイドミラー越しに巖さんを撮っているのですが、その撮影をしている私自身も映っているという映像で、一見第三者が撮影しているようにも見えますね。

――袴田事件は、笠井さんにとってライフワークだし、今回の映画は大きい作品になるわけですね。

笠井 もちろんそうですね。いつかは…というのがようやく、しかも無罪判決が出るというタイミングで、私にとっても本当に大きなことです。

 中京テレビを辞めてフリーランスになったのも、とにかくこの映画を完成させることに全力を集中したいということからでした。時間もかかりましたけれどやっと完成できたという思いです。

 袴田さんの映像は、テレビ・ネット・映画含めて、今では多くの報道がなされています。その中でも、今回公開する私の映画は、他の誰も撮っていない映像の豊富さと、他に誰も試みていない袴田さん自身の内面に迫った点が一番の魅力だと思っています。他では決して見られない、巖さんとひで子さんの素顔を、本作を通して皆さまにご覧頂きたいと思います。そして、「冤罪の被害者」「死刑囚」といった理解だけに止まらず、生身の人としての袴田巖さんの魅力を感じて頂きたいと願っています。

――それまで笠井さんが注いできたエネルギーの大きさを考えると、まさに労作で、ぜひ一人でも多くの人に観てほしい映画だと思います。

月刊『創』編集長

月刊『創』編集長・篠田博之1951年茨城県生まれ。一橋大卒。1981年より月刊『創』(つくる)編集長。82年に創出版を設立、現在、代表も兼務。東京新聞にコラム「週刊誌を読む」を十数年にわたり連載。北海道新聞、中国新聞などにも転載されている。日本ペンクラブ言論表現委員会副委員長。東京経済大学大学院講師。著書は『増補版 ドキュメント死刑囚』(ちくま新書)、『生涯編集者』(創出版)他共著多数。専門はメディア批評だが、宮崎勤死刑囚(既に執行)と12年間関わり、和歌山カレー事件の林眞須美死刑囚とも10年以上にわたり接触。その他、元オウム麻原教祖の三女など、多くの事件当事者の手記を『創』に掲載してきた。

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