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「象徴天皇」が象徴するこの国の姿―近代化の途上の不自由さと可能性

六辻彰二国際政治学者
天皇誕生日の皇居での一般参賀(2016.12.23)(写真:Natsuki Sakai/アフロ)
  • 天皇への「好感」や「尊敬」はおよそ7割にのぼる
  • 上皇陛下は天皇在位中、天皇という立場に付き物の不自由さを受け入れながらも、自らの意志で制約を乗り越えようとしてきた
  • その姿は息苦しさのあるこの国を象徴するとともに、絶え間ない努力でこれを乗り越える可能性をも象徴し、それは国民からの共感と敬愛につながったのではないだろうか

 4月30日に天皇を退位した上皇陛下は在位中、なぜ多くの国民から敬愛されたか。そこには自分の意志のままにはならない不自由さのなかで、それを受け入れながらも、ただ運命に従うのではなく、自分の意志に沿って道を切り拓こうとする姿への共感があったと思われる。

天皇への敬愛

 NHKが行った世論調査からは、(そうでない意見ももちろんあるが)天皇在位中の上皇陛下が多くの国民に敬愛されていたことがうかがえる。

 「天皇に対する感情」に対する「尊敬」、「好感」、「無感情」、「反感」の割合は、1973年(昭和48年)にはそれぞれ33%、20%、43%、2%だったが、これが40年後の2013年(平成25年)には34%、35%、28%、1%になっていた。ここからは、(世代などによって受け止めに差があるにせよ)長期的に「好感」が伸び、「無感情」が減少したことがわかる。

 とりわけ「好感」は、昭和から平成への転換期に急激に伸び、1988年(昭和63年)の22%から1993(平成5年)には43%に急伸した。戦前「現人神」として君臨した昭和天皇との違いを、ここに見出せる。

 その後、「好感」はやや減少したが、入れ違いのように「尊敬」が伸び、最終的にはおよそ7割の回答者が尊敬あるいは好感の念を抱いていた。

息苦しさの象徴

 この幅広い敬愛は、なぜ生まれたのか。

 災害地などへの慰問や公務への真摯な取り組みが多くの国民の共感や支持を呼んだことは確かだろうが、より広く考えると、そこには「息苦しさをともなう運命を受け入れながらも、自分の意志で少しずつ道を切り開いてきたことへの共感」があるように思えてならない。

 天皇の座にあることは、さまざまな不自由さをも意味する。

 職業選択や居住地を選ぶ自由がないことはいうまでもなく、配偶者を選ぶことも、子どもを自分の手元で育てることも、かつてはなかった。災害の被災者を見舞うことはともかく、膝をついて国民と話すことなど昭和天皇の時代にはあり得ず、これとて当初は「皇室の伝統に反する」「天皇に相応しくない」といった批判や意見もあった。

 そうしたなか、ロールモデルすらない「象徴天皇」という、もって生まれた運命を受け入れながらも、上皇陛下は配偶者を選び、手元で育児し、自身の意志に沿って被災地の慰問や戦没者慰霊を行った。それは不自由な環境を受け入れながらも自ら環境を変化させてきたといえる。

近代化の途上

 ひるがえって日本全体を見渡した時、そこには近代化の途上にある姿が目に付く。

 近代化とは産業化や機械化、都市化などの現象だけを指すのではなく、そのなかで性別や人種といった偶然の属性にとらわれず、個人が自分の一生を選択できる社会という「人間の解放」をも意味する。18世紀以降の欧米諸国で、身分制の解体をはじめ男女同権の確立や人種差別の撤廃などが、少なくとも法的には段階的に実現していったことは、これを示す。

 この観点からみれば、日本社会は先進国のなかでもとりわけ属性にこだわる傾向が強い。その典型は男女の社会的な役割に関するもので、そこには所得の男女差が先進国中で屈指の大きさであることや、多くの欧米諸国では100年ほど前に実現した選択的夫婦別姓がいまだに導入されていないことなどが含まれる。

 より個人的なことでいえば、欧米人の研究者の場合、こちらが若輩であっても意見を意見として聞いてくれることが多いが、相手が日本人では、そこにはほとんど期待を抱けない。そこには年齢という属性へのこだわりが見受けられる。

 もっとも、念のために言えば、偶然の産物である属性にこだわり、その裏返しで個人が個人として扱われにくいことは、日本特有の話ではない。

 イギリスで産業革命が、フランスでフランス革命が、それぞれ発生した18世紀のヨーロッパでは、自由や人権といった近代的な理念が急速に普及したが、当時まだ封建制の名残が強かったドイツでは出遅れたコンプレックスも手伝って、これらが「自分たちのものではない」という反動的、排他的なリアクションも珍しくなく、それが民族や血統といった属性にこだわる風潮をかえって強くした。ゲルマン人の優秀さを過度に強調したナチスの台頭は、その延長線上にあったといえる。

 これに鑑みれば、イスラム圏をはじめ、アジアやアフリカの各地で独自の文化や伝統が強調され、その反面で人権という名の近代的な「人間の解放」に否定的な反応が示されがちなことは不思議ではなく、それらよりトーンは控えめかもしれないが日本もほぼ同様といえる。

不自由さと可能性の象徴

 その日本でも、「偶然」その家系に長男として生まれることで成立する天皇という立場は、とりわけ「人間の解放」からかけ離れたものと言わざるを得ない

 即位しないという選択は事実上ほとんどない。その一方で、伝統や慣習といったしばりだけでなく、常に国民から注視されるなかにあっては、自分の意志に沿って行動することへの抵抗は強い。つまり、天皇という立場は「自分の一生を選択する」ことすら難しい。

 そのなかで上皇陛下は「自分の一生を選択する」余地が大きく制限される環境を受け入れつつも、自分の意志に沿った行動をとり続けることで、国民からの評価をも変えてきた。いまや膝詰めで国民と語り合う天皇の姿への異論はほとんど聞かれない。

 平成の30年間には、女性の社会進出が進んだことをはじめ、一見したところ「人間の解放」が進んできたようにみえるが、実際には先述のように属性にこだわる傾向がいまだに強い。言い換えると、社会全体の建前としては「人間の解放」を謳いながらも、実態をともなわない部分が小さくない。

 そのなかで多くの国民は、上皇陛下がいわば運命を受け入れながらも、そこにつきまとう制約を自らの意志で乗り越えようとする姿を目撃してきたことになる。ここに、息苦しさに直面する多くの人々の共感が生まれ、それが敬愛に転じたとしても不思議ではない。

 言い換えると、初めて「象徴天皇」として即位した上皇陛下は、近代化の途上にあるこの国で多くの人が感じる息苦しさを象徴したと同時に、そのなかで少しずつ変化を生む可能性をも象徴したといえる。5月1日、新たに即位した天皇陛下はこの先、何を象徴するのだろうか。

国際政治学者

博士(国際関係)。横浜市立大学、明治学院大学、拓殖大学などで教鞭をとる。アフリカをメインフィールドに、国際情勢を幅広く調査・研究中。最新刊に『終わりなき戦争紛争の100年史』(さくら舎)。その他、『21世紀の中東・アフリカ世界』(芦書房)、『世界の独裁者』(幻冬社)、『イスラム 敵の論理 味方の理由』(さくら舎)、『日本の「水」が危ない』(ベストセラーズ)など。

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