都合の良い「多様性と調和」東京オリパラが残した負のレガシーを忘れない
5日、パラリンピックの閉会式が行われ、7月末から開催されてきた東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会が閉幕した。
新型コロナウイルス感染拡大による緊急事態宣言下に開催が強行された今大会だが、特に性的マイノリティに関しては、足下で当事者の権利が保障されない一方で、表層的な「LGBT」や「レインボー」は都合よく利用される場面が散見され、「多様性と調和」という大会ビジョンの空虚さが際立つものだった。
既にオリパラのために整備された施設のほとんどが、年間の収支が赤字となる見通しと報じられ「負のレガシー」について言及されているが、施設だけでなくオリパラによる社会的影響などの面でも、今大会がどんなレガシーを残したのか。
特に性的マイノリティに関する視点を中心に振り返りたい。
潰されたLGBT法案
東京オリパラを契機に、2015年頃から進められてきた性的マイノリティに関する法整備の動きは、今年5月、自民党が提案した法案を自ら自民党が潰すという結果に終わった。
「多様性と調和」は、東京オリパラ大会ビジョンに掲げられた理念の一つだ。
2014年に改訂された「オリンピック憲章」には「性的指向」による差別の禁止が明記され、各国で制定されている性的指向や性自認を理由とした差別禁止法の制定を求める声が国内でも高まっていた。
東京都は2018年に人権尊重条例を制定し、性的指向や性自認に関する差別的取り扱いを禁止した。しかし、国レベルでの法律は未だなく、早急な法整備が求められていた。
2015年には、超党派の国会議員によるLGBT議員連盟なども作られ、オリパラが常に念頭に置かれながら立法に向けた議論が進められていた。
今年5月には、自民党LGBT特命委員会が提案した「LGBT理解増進法案」が、不十分な内容ではありつつも、与野党の実務者で合意し通常国会へ提出されるはずだった。
しかし、「差別は許されないものであるとの認識の下」という基本的な文言に自民党の一部議員が強硬に反発。提出は見送られた。
さらに、この間自民党・山谷えり子参議院議員によるトランスジェンダー女性の選手の五輪出場について「ばかげている」といった発言や、同じく自民党・簗和生衆議院議員の「LGBTは種の保存に背く」などといった発言が批判を集めたが、謝罪や撤回もなくヘイトスピーチに対する責任は一切取られなかった。
LGBT法案を通さないよう党執行部に圧力をかけたのは、自民党総裁選で高市早苗衆議院議員の支持を表明している安倍前首相だと報じられている。
安倍政権下で五輪が招致され、一方で安倍前首相が後押しし、比例で選出された杉田水脈衆議院議員は、2018年に「LGBTは生産性がない」といった考えを月刊誌に寄稿し批判を浴びたことも、この間性的マイノリティの権利保障が進まなかったことと繋がっている。
政府与党は、一方で「多様性と調和」を掲げる東京オリパラを推進し、他方で実際には性的マイノリティの権利を認める気はないという姿勢を続けてきた。実際にオリパラ開催に至り、その姿勢が改めて浮き彫りになったと言える。
根本的な問題意識
今年2月、森喜朗元組織委員会会長が「女性がたくさん入っている理事会は時間がかかる」と発言し批判を集め、辞任した件は記憶に残っている人が多いだろう。
さらに、報道によると森氏は、五輪開会式の聖火最終ランナーについて、大坂なおみ選手ではなく「純粋な日本人男性」を望んでいたということも明かされている。
加えて、組織委員会の中では、今年7月、森氏を「名誉最高顧問」に就ける案が浮上していたことも報道され、組織的な認識の問題が露呈していた。
同月、新型コロナウイルス感染拡大により、政府は東京に四度目の緊急事態宣言を出し、オリパラの全期間が宣言下となることが決まったが、大会の開催は強行された。
しかし、五輪開会式直前に、式典楽曲の作曲の一部を担当していた小山田圭吾氏が、過去に障害者いじめに関わっていた点に批判が集まり辞任。同じく開会式でショーディレクターに任命されていた小林賢太郎氏が、過去にナチスによるユダヤ人の大量虐殺をネタにしていたとして解任された。
五輪の開会式に出演が決まっていたセネガル出身の打楽器奏者は、今年5月になって広告代理店から出演をキャンセルされてしまった。理由は、大会組織委員会側から「なぜここにアフリカ人がいるの?」と言われたからだという。
開閉会式のプロデュースチームの役割には「式典全体におけるジェンダー平等、多様性の推進」と記載されていたが、式に関わるクリエイターは大多数が男性だった。
式典統括ディレクターの日置貴之氏は、日刊スポーツの取材に対し、「(記者がダイバーシティ&インクルージョンという言葉を)言えない段階でだめ」「まあ、皆さんは日本人しか読まないメディアかもしれないけど(笑)。僕自身、海外でずっと生活してるので、やっぱりすごく不思議に思うところも日本にはある(笑)」といった、不遜な態度や多様性とは矛盾したような回答が物議を醸していた。
このように、トップの言葉や考え方、組織体制など根本的な部分から「多様性と調和」といったコンセプトが、いかに表層的なものだったかが伝わる事件が連発していた。
都合よく使われるレインボー
オリンピックの開会式では、選手入場曲ですぎやまこういち氏の曲が使用された。同氏は、過去に番組で共演した自民党・杉田水脈衆議院議員の「生産性がない同性愛の人達に皆さんの税金を使って支援をする。どこにそういう大義名分があるんですか」といった発言にも「正論ですよ」と同意しているような人物だ。
式典の国歌斉唱では、歌手のMISIA氏がレインボーに彩られたドレスを身にまとい、君が代を歌った。
同氏は長年性的マイノリティへのサポートを表明してきたアーティストの一人だが、今回の五輪開会式で国歌を歌う姿を見ながら、筆者は複雑な気持ちを抱いた。
性的マイノリティの自殺未遂の割合の高さ、いじめや差別の現状が放置され、「LGBT法案」は自民党によって潰される中で、国家的なイベントである「オリンピック」の開会式では、性の多様性を象徴するレインボーを掲げたアーティストが「国歌」をうたう。
オリンピックという装置を使い、国家が求める「一つの物語」に組み込まれ、都合の良い「多様性」として利用されるが、その足下では性的マイノリティ当事者の権利が保障されない現実を突きつけられるようだった。
五輪閉会式のエンディングでは、リナ・サワヤマ氏の「Chosen Family」(作詞作曲:Rina Sawayama・Danny L Harle)が使われた。タイトルの意味は「選んだ家族」、歌詞には「遺伝子や名字を共有しなくたっていい」と多様な家族のあり方が表現されている。
この曲が使われたことも、式典の「多様性」を象徴する意図があったのだろう。だからこそ、同性婚も選択的夫婦別姓すらも認められていない日本の「多様性と調和」の空虚さが浮かび上がった。
そして、これらのマイノリティの権利保障を阻むのは、紛れもない政府与党だ。
当事者の可視化
「アウトスポーツ」によると、東京オリンピックには性的マイノリティであることを公表した選手は少なくとも185人以上、パラリンピックは34人以上が出場した。いずれも前回のリオを大きく上回り過去最多だった。一方で、日本代表選手はゼロ、欧米の選手がほとんどでアジアや他の地域は非常に少ない。
オリンピックの総出場者数は約1万人、パラリンピックは約4400人。もちろん中には性的マイノリティであることを公にしていない選手も多数いるだろう。「カミングアウト」している人だけが”当事者”ではないことに留意しつつ、オープンな選手の活躍にエンパワーされる人は少なくなかった。
車いすバスケットボール女子イギリス代表チームのロビン・ラヴ選手は、BBCの取材に対して「(性的マイノリティ当事者の)ロールモデルと思える人物をほとんど目にしなかった」、性的マイノリティかつ障害のある選手だと公表している選手は多くないからこそ「LGBTQの障害者であることがスポーツ界の主流に受け入れられたのは、素晴らしいことだったと思います」と語っているように、当事者の姿が可視化されることの重要性は感じられる。
今回オリンピックには複数のトランスジェンダー女性の選手が出場したが、SNS上で起きた議論の中には、本人やトランスジェンダー当事者のアイデンティティを否定するようなものも多数あった。メディアも検証なしに報道してしまっていた側面もあり、当事者にとって厳しい状況が続いている。
メッキが剥がれ落ちる理念
オリンピックもパラリンピックも、確かに各試合や式典のパフォーマンスに心動かされた面はある。しかし、「平和の祭典」や「多様性と調和」を掲げる東京オリパラという装置が何を奪ってきたか、どんな「レガシー」を残したのかを忘れないようにしたい。
例えば、コロナ禍で医療が逼迫し、生活に困窮する人が増えても、感染や貧困対策、市民の命より、オリパラ開催が優先されリソースが割かれてきたこと。
「復興五輪」の象徴として3月にスタートした五輪聖火リレーでは、「ランナーより目立つスポンサー車両によるお祭り騒ぎ」の様子が報じられたこと。
パラリンピック聖火の採火式を神奈川県相模原市の「津久井やまゆり園」で開催しようとし、遺族から「大会を盛り上げるために園を利用している」のではと要望書が提出されたこと(その後施設での採火を撤回)。
緊急事態宣言下にIOCのバッハ会長は来日し広島市を訪問。その際の警備費の支払いをIOCと組織委員会が拒否し、広島県と広島市が支払ったこと。一方で広島市からIOCに対して、8月6日の広島原爆の日に黙祷を呼びかけるよう要請がされたが、IOCは応じなかったこと。
オリンピックは無観客開催が確定した7月頭に「学校連携観戦プログラム」の中止も決まったが、一方でパラリンピックでは殊更に「教育効果」があげられ、無観客開催でありながら、学校集団観戦が実施されたこと。これについて、”教材”として強調されることへの批判の声も上がっていた。
当初、東京都は約14万人が観戦する見込みと明らかにしていたが、実際には辞退が相次ぎ、5日時点で約1万2千人にとどまった。東京都で引率した教員は毎日新聞の取材に「命がけの観戦の様相」だと語っている。さらに、千葉県は観戦を引率した教員が感染しプログラムを中止した。
政府やIOCなどが示す「多様性と調和」や「平和の祭典」という理念が、ブランディングのための道具でしかないのかと思わざるを得ないほど、実際の行動との矛盾や落差など、そのメッキが剥がれ落ちた姿を目にし続けてきたオリパラだった。
政府与党がこれらを止める判断もできたが、実際にはオリパラ開催を堅持してきた。見せかけの「多様性と調和」という言葉を掲げながら、都合の良い部分は利用しつつ、実際にはマイノリティの権利を保障する気はない。
こんな現状がまるでなかったかのように、橋本聖子組織委員会会長は記者会見で、札幌市が2030年の冬季五輪招致を目指していることについて「なんとか実現できれば」、夏季五輪の招致についても「近い将来また開催できたら」と語った。
今月末は自民党総裁選が予定され、その後ろには衆議院議員総選挙が控えている。
五輪が奪ってきたもの、多様性を掲げたオリンピックムーブメントによってマイノリティの権利が守られるわけではないという、この間突きつけられた負のレガシーを忘れてはならない。