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女芸人No1決定戦「THE W」 優勝した吉住は何が際立っていたのか その詳細を見る

堀井憲一郎コラムニスト
(写真:PantherMedia/イメージマート)

「THE W」決勝の独特な審査方法

女芸人No.1決定戦である「THE W」はピン芸人の吉住が優勝した。

「THE W」の決勝に出場するのは10組。

優勝の決め方が、独特だった。

5組ずつの2グループに分けてそれぞれのトップを決め、最後に2組で雌雄を決するやりかたである。

おそらく他のコンテストとかぶらないようにしているからこういう決め方になっているのだろう。それにしても、これはこれでなかなかむずかしい。

審査員は六人である。

久本雅美。ヒロミ。リンゴ(ハイヒール)。哲夫(笑い飯)。川島(麒麟)。田中(アンガールズ)。これに視聴者投票が加わって全部で7票。

2組ずつの対決投票となる。4票以上取ったほうが勝ち残る。

2020年の決勝の模様をふりかえってみる。

「いま見た漫才」と「記憶した漫才」の優劣を決めるむずかしさ

まずAグループから。

出場は5組。TEAM BANANA。オダウエダ。にぼしいわし。紅しょうが。ターリーターキー。(TEAM BANANAは以下「チームバナナ」と表記します)。

5組が一挙にパフォーマンスを見せるわけではない。

まず「チームバナナ」が漫才をやる。

続いて「オダウエダ」のコントが演じられる。

どっちがよかったか、投票がある。

チームバナナが4対3の僅差で勝った。

次に「にぼしいわし」が出てきてパフォーマンスを見せ、「前の前にやったチームバナナの漫才」を思い出して、それと比較して優劣を決める。

ここも「チームバナナ」が勝った。

その次には「紅しょうが」が出てきて漫才を見せてくれる。それを見たあと「前の前の前にやったチームバナナの漫才」を思い出して、それと比較しなければいけない。

この「前の前の前」というのを思い出して比較するのが、かなりむずかしい。

テレビ前でぼんやり見てるぶんには、細かく覚えていられない。

もちろん審査員は、それなりにきちんとメモしているからそこは違うとおもうのだが、でも、やはり「いま見た漫才」と「記憶している漫才」を比較して採点する、という部分は変わらない。

なかなかむずかしいところである。

ここで「紅しょうが」が「チームバナナ」(の記憶にある漫才)を破り、最終戦になる。

最後に出てきたのが「ターリーターキー」で、投票の結果、「紅しょうが」の勝ちとなり、Aブロックの勝者となった。

テレビで売り出す人気者を決めるコンテストでもある

並べるとこうなる。

チームバナナ 4−3 オダウエダ

チームバナナ 7−0 にぼしいわし

紅しょうが 5−2 チームバナナ

紅しょうが 7−0 ターリーターキー

実際のところは5組で一挙に演じてもらって、すべてを見てから一番おもしろかったのを選ぶ、というほうが審査はしやすいし、おそらく出順の影響は少なくなるだろう。

「いま見たパフォーマンス」と「35分前に見たパフォーマンス」の比較となると、出順の影響は大きい。

でも、テレビで見せる「コンテスト」のショウであるかぎりは、「なるべく公平な審査」と同時に「テレビショウとしてどきどきハラハラする部分」を入れざるを得ない。だからこういう審査になってしまう。

出場者たちは、そこもふくめてのコンテストだと納得するしかない。

コンテストとはいえ「これからテレビで売り出す人気者を決めるコンテスト」でもあるから、「くじ運も含めてのコンテスト」であってもしかたがない。

「チームバナナ」と「オダウエダ」という異種戦の審査のむずかしさ

比較審査の細かい部分を振り返ってみる。

まず第一戦は「チームバナナ」と「オダウエダ」戦。

「チームバナナ 4−3 オダウエダ」だった。

この大会でのもっとも接戦だった戦いの一つである。

たしかにこの両者の比較はむずかしかった。

テレビで見ていて、どっちが勝つかわからなかった。いくつかは、審査を見るまでもなくこっちだろうとわかったし、それが6割くらいだったが、これはわからない戦いだった。

審査発表のときに、どっちだろう、とドキドキした。

番組を作るほうとしては、この「見てる人のドキドキ」が欲しいのだ。

今回の方式だとドキドキする機会が9回ある。5組を一挙に審査すると、全部で3回しかない。(Aブロック審査と、Bブロック審査と、それぞれの勝者の最終審査)。

3回よりは9回ということでこの方式が採用されたのがわかる。

「チームバナナ」と「オダウエダ」戦では、私個人の印象では、「オダウエダ」のほうがインパクトが強く、こっちのほうが残って欲しいとおもった。それは審査員の笑い飯の哲夫もそうだったようだ。彼は個別に点数をつけているようで、唯一99点だったのはオダウエダだと言っていた。

この第一戦は「喋りだけの正統派大阪の漫才・チームバナナ」と「小道具も使ったぶっ飛び設定コント・オダウエダ」の異種格闘戦だった。票が割れるのはしかたがない。

芸に対する姿勢と、そもそもの笑いの趣味の方向性で割れてしまう。昔ながらの喋り技術と、新しい世界を見せてくれる発想の見事さの比較となって、評価が割れる。

「M-1」と「キングオブコント」と「R-1」の垣根をとっぱらって、それの女子だけ部門でのコンテストでもある。

これはこれでおもしろいと見るしかない。

「チームバナナvsオダウエダ」の戦いには異種戦のスリリングさがあった。

二戦目は初戦敗退「オダウエダ」と「にぼしいわし」の戦いでもあった

次戦「チームバナナ」対「にぼしいわし」は

「チームバナナ 7−0 にぼしいわし」

で圧倒的な差となった。

これは裏からいえば、さきほど負けた「オダウエダ」と「にぼしいわし」の比較投票でもあった。

見ていて、私も「『にぼしいわし』より『オダウエダ』のほうがおもしろかった」とおもったのだ。そうなると、「チームバナナ」の勝ちとなる。

「にぼしいわし」が見せたのは「公園にある雲梯の好きな子と雲梯を発明した女性の会話」という、かなり限定的なネタであった。

演技者の片方がやや狂気じみた部分を見せ(丸っこい“にぼし”の担当)、背の高い“いわし”はふつうの子供役だった。

ふつう視点がツッコミ役であるが、でも彼女も“にぼしの狂気”に引っ張られていくので、ボケに対する純粋なツッコミ(変なことをいうヤツに対して、ちゃんと常識世界とのズレを認識させる役)ではなく、客をより不思議な世界に引き込もうとする案内役になっていった。

これはこれで会場が一体になれたら、熱狂的支持を呼んで大爆笑に次ぐ大爆笑ネタになるというのはすごくわかる。でも、それはテレビ中継されている舞台では(しかも客席は満席にはさせられないという状況下では)なかなか苦しかった。

「チームバナナ」と「紅しょうが」の34分を隔てた戦い

続いて「紅しょうが」が登場。美容院の漫才を披露する。

それを見たあと、前の前の前にやった「チームバナナ」のパフォーマンスを思い出して、いまの「紅しょうが」と比較しなければならない。

この両者のスタイルはほぼ同じ、「喋りを中心にした漫才」である。

「紅しょうが」のほうが、かなり動きが細かく、動きでも笑わせる部分もあるが、でも基本は昔ながらのしゃべくり漫才であった。

時間が離れると、まだ異種戦のほうが評価しやすいようにおもった。

「チームバナナ」の漫才が始まったのが19時10分、「紅しょうが」は19時44分である。

34分差がある。しかもあいだに2つ、別のパフォーマンスも見ているのだ。

テレビ前での正直な感想でいえば、「新しく見たほうをおもしろく感じる」ということになる。(正直にいえば「チームバナナ」の漫才の細かいところは忘れちゃったなあ、ということでもある)。

実際「紅しょうが 5−2 チームバナナ」という結果になった。

技術的に両組がそんなに違っているとは感じられない。「紅しょうが」のほうが見た目や動きのおもしろさが高かったとおもうが、それは逆にいえば喋りだけでおもしろさをキープできる「チームバナナ」が高く評価されてもおかしくないポイントでもある。

それにものすごく細かい点でいえば、どちらも「ダレる」場面があった。それも同等だったとおもう。

私の正直な感想としていえば、イーブンだった。

もしどうしても採点しなければいけないのなら、印象から「同調による停滞」が「チームバナナ」のほうが長かったように感じたので、「紅しょうが」に入れるかな、というところである。

貪欲さが際立った「紅しょうが」がAブロックを勝ち抜く

A組最後は「ターリーターキー」が登場。

「ターリーターキー」は、本来は準決勝で敗退していたが、決勝進出が決まっていた「スパイク」がコロナ感染で出場辞退、繰り上げで決勝進出したと、この時点で知らされる。

この「繰り上げ出場である」と告知された時点で、すでに不利である。(少なくとも視聴者は予断を持つことになる)。

「紅しょうが 7−0 ターリーターキー」

「紅しょうが」の圧勝だった。

「ターリーターキー」は上司の恋を応援するために仕事を引き受ける部下がじつはポンコツ、というネタであった。基本精神は、恋を応援する姿にある。

それは、なりふりかまわず美容師をものにしようと突進する小太り女性ネタの「紅しょうが」とはかなり作り出す空気が違っていた。貪欲さの差である。

「ターリーターキー」にも次々と笑うポイントがあったが、温かいほんわりした笑いであって、この場では厳しかった。

これでAブロックからは「紅しょうが」のファイナル進出が決定した。

「Aマッソ」が斬新な映像演出を取り入れたときに捨てたもの

Bブロックを同じように順に振り返る。

「ゆりやんレトリィバァ 4−3 Aマッソ」

これは、飛び道具対別の飛び道具の戦い、という様相であった。

先に出たのが「Aマッソ」。

映像をプロジェクターで映し出して、それと合わせる漫才だった。

非常に斬新で驚かされる芸であった。

ただ、あとから考えると、新鮮さに驚かされたが、最終的に大きな評価を与えられたわけではなかった。斬新さによって頭では喜んでいたが、身体にまで響いてこなかった、ということだったようにおもう。

なかなかむずかしいところだ。

それは何度も見返して、気がついた。

「Aマッソ」の喋りは、本来の漫才テンポではなく、画像合わせになっていた。

映像がついてくる部分では、ボケに対してすぐツッコミを入れるわけではなく、ボケセリフのあとに映像が入り、それからツッコミは入ったのだ。そこにじつは、ほんの一瞬、間があいていた。

つまり変型の三人漫才になっていたのだ。

ツッコミは、いつもの相方のボケのあとの、映像のボケ(絵解きしながらのボケ)を待って、ツッコまないといけなかった。

見てるほうが、その三者分担になれておらず、そして演者も「二人漫才」のテンポが捨てきれず、ものすごい短い差でしかないが、でも何度も「いつもと違う間でツッコむ」という展開になってしまっていたのだ。

三人めの映像くんは言葉を発しないから、見ているときは、ボケ→映像→ちょっと空けてのツッコミ、というテンポをぼんやり眺めていた。

頭は楽しんでいたが、身体はおそらく「音の間合いのズレ」に気がついており、少しずつ違和感を抱いていたのだとおもわれる。

とちゅう「(19のときは芸人を)いやいや、やってたからなあ」というセリフがあって、これは完全なボケに聞こえて、いやいややったんかーいと見ていておもったのだけれど、ツッコミ役は、そういう言葉を発せずに、すごくすかされた気になった。ツッコミさんは「三人めの芸人の映像くん」のことを気にしていて、笑いをひとつ流したように見えたのである。

「間合いよくポンポンと映像が挿入される気持ちよさ」を優先したために「もともとの二人のテンポのいい心地よいボケとツッコミ」はあきらめられたということのようだ。

どっちを評価するか、ということだろう。

そしてお笑いの審査員は、圧倒的に「身体の反応」を重視する。少なくともプロの芸人の審査はそうなるとおもう。

そのぶん、動画の新鮮さに目を奪われた人には意外な審査結果だったかもしれない。

「ゆりやんレトリィバァ」の笑いの二次創作

一方のゆりやんは、サザエさんのカツオの姿で、ずっと変なことを言い続ける芸である。

めちゃめちゃ受ける人と、まったく反応しない人に分かれるネタである。

「元ネタ」があってのネタである。「サザエさん」を知らない人はいないだろうという前提になっていて、たしかに知らない人はいないだろうけれど、でもサザエさん(カツオくん)に対する熱量は人それぞれによってかなり違うから、受けように幅が出てしまう。

彼女の世界に入れなかった人は、「すべてがまったく理解できない」という状態になってしまった。

あ、二次創作か、とおもった瞬間に私もそうなりかけたが、いちおう仕事で見てるからなるべく寄り添うように見てはいた。理解はできる。でも、楽しく見られるわけではない。

もうしわけないが、しかたがない。

私は、見てるときには長谷川町子およびアニメスタッフが作った世界の何物も想像しないで見ており、いまここで始める説明だけで世界を把握するので、その視点から見るとかなり不親切なネタである。

他のすべての芸人は「シンデレラを読み聞かせたいとおもうんやけど」とか「遊具で一番好きなのは雲梯や」や「美容院で迫ってみるからイケメン美容師やって」というような、あまりやりたくもないだろう設定の説明をしているが、彼女はそこを飛ばしている。

そこを飛ばしているからおもしろいというのと、それはやはり手順として不親切だから評価できない、というのに分かれるとおもう。

他の芸人が「小屋の舞台を踏んでいる」という立場で登場したのに、ゆりやんは「テレビのコーナー」のような芸を見せているからちょっと芸質として違いすぎるのだ。

ただまあ対戦相手も飛び道具を使った「Aマッソ」だった。

評価のむずかしい2組が戦って、審査も接戦となり、4−3でゆりやんの勝ちとなった。

吉住が見せてくれないかぎり地上に存在しなかった世界

ついで「吉住」が出てきて女審判ネタをやった。

これはまあ、「悪ふざけをし続けていたゆりやん」対「自分の世界を明確に見せた吉住」の戦いだから、「吉住」の勝ちとなる。

「吉住」の世界は圧倒的だった。

実際に世界のどこかにはありそうな風景を設定してくれる。

しかし、彼女が見せてくれないかぎり、おそらく地上には存在しなかったであろう会話が展開する(ひとり芸だけど会話になっている)。

それが飛び抜けていた。

まわりも客も圧倒する芸だった。

女審判の格好で恋する女性心を語った時点で、彼女はひとり飛び出していたのだ。

一人語りながら、吉住の作り出す世界の際立ちがくっきりしていて、屹立していた。

「わざと境界を曖昧にしたゆりやんの芸」が比べられると「吉住」のほうがより多く支持されるのがわかる。

「吉住 5−2 ゆりやんレトリィバァ」の結果となった。

実質的な決勝戦に見えた「吉住」と「はなしょー」の戦い

次に出てきたのは「はなしょー」である。

「はなしょー」対「吉住」は、もっとも見応えのある対決だった。

連続しての対決だったのもよかった。

「吉住 5−2 はなしょー」で、吉住がかなり大きく勝ったような結果になったが、だが、見てるときはどっちになるかわからなかった。

どっちが勝ったと判定されてもしかたないとおもってみていた。そういう接戦だった。

敢えていうなら、どこまでも私個人の感想でしかないけれど、事実上の決勝のように感じた。これで勝ったほうが優勝だったな、と、まああとからだけど、そうおもった。

私のなかでは優勝が「吉住」で、実質の2位は「はなしょー」だったのだ。いや、これはあくまでもどこまでも個人の感想ですからそのつもりで。

「はなしょー」の「見舞いに来た孫娘ネタ」はわかりやすいベタな世界である。

見た目はヤンキーで若者言葉で話す不良っぽい娘、彼女が実はとてもいい子だというのは「予定された意外性」であって、わかりやすい世界である。

意外性で勝負しないぶん、きちんと作られていた。

「新喜劇の舞台」のようなベタな世界をきれいに演じて、全世代的に受けるようなネタを見せていた。

尖った部分の少ないネタを選択したのは、それは「テレビで見せる芸」を強く意識したからだとおもう。おばあキャラの幅が見事で、キャラをしっかり見せるのに成功していた。十全に力を発揮していたとおもう。もう一本みたいとおもわせる力があった。底力がすごいと感じさせた。

ただコンテストなので「作り出す世界観に才覚が際立っていた吉住」と比べると、そのベタさが不利だったのかもしれない。

視聴者票は「はなしょー」を選んでいた。

そのへんはネタ選択として間違っていなかったということだろう。

優勝できなかった9組のうち、もっとも今後に注目したい一組である。

「ぼる塾」の見せた安定した三人漫才の魅力

5組目、通算10組目の最後の登場は「ぼる塾」。

ぼる塾は、まさに「三人漫才」である。

三人漫才はあまり間合いを詰めすぎると、最後の一人が浮きすぎてしまうので、それは昔のレッツゴー三匹の長作も、いまの四千頭身の石橋も同じで、やや緩やかなテンポで展開して、三人目が入る余地を作っておかないといけない。

ぼる塾も、左の二人で展開しつつ、右端の田辺さんが流行語大賞ノミネート語の「まーねー」を入れるタイミングをずっと残していて、そののんびりした気配が、いい。

おそらく左端のはるかの喋りは、田辺さん合わせになっているとおもう。

田辺さんが話すときに、左の二人はふつうに笑っていたりする。そこもまた見ていて楽しい。

そういう全体ののんびりさを楽しむ芸であって、言ってしまえば、コンテスト向きではない。お馴染みのあの世界、という気配で、たぶんこのまま二十年続けても同じ空気が続くとおもう。2040年に劇場でもまだ見たい芸でもある。

恋の話で始まるほんわかした漫才で、「ぼる塾」はこれでいいのだ。

もちろんだからセンスを研ぎ澄ませた「吉住」と比べられたらやはり敵わない。

「吉住 5−2 ぼる塾」という結果になった。

これまた視聴者票が「ぼる塾」に入ったところが、やはりテレビ向けなのだとあらためておもう。

「吉住」のうしろで「オダウエダ」が泣いている

ファイナルステージは、「紅しょうが」対「吉住」である。

吉住は「銀行強盗が籠城して人質になっているのに恋バナがやめられないおバカな女子行員」ネタ。

紅しょうがは、「彼氏が浮気している現場に踏み込むということを経験したいと懇願する女子」ネタだった。

内容を書いているだけでその差がわかる。

ファイナルの結果

吉住 6−1 紅しょうが

見ているほうも、まあ、「吉住」の勝ちだろうな、とおもって見ていた。

「吉住」のうしろに「オダウエダ」が映り込んでいて、吉住の優勝を聞いて一緒に泣いているのが印象的だった。

これで「吉住」という新たな芸人が、送り込まれることになった。

あまりバラエティのひな壇で活躍するタイプではないかもしれない。

でもこれで、吉住が見せてくれなかったら地上には存在しなかった風景を目にする機会が増えたのである。

芸の世界においてこれほど素晴らしいことはない。

「THE W」は今年もまた才気溢れる女芸人を世に送り出すことができて、とても重要な役割を果たしたようである。

「吉住」が死のブロックと呼んだBブロックの凄み

そもそも、AブロックとBブロックはずいぶんと差があって、「吉住」がBのほうを「死のブロック」と呼んでいたくらいだ。

ワールドカップ予選リーグで8組あるうちの1組に強豪チームが重なったときに使われる言葉なのだけれど、そう言いたくなるのはわかる差であった。2つしかないブロックの1つが「死のブロック」だと、もう1つは「楽勝のブロック」になってしまう。

たしかにBブロックで勝ち抜いたほうが優勝するのだろうな、という組み分けになってしまっていた。

そんな組み分けをしても誰も得しないのだから、これはくじ運の問題なのだろう。

まあコンテストの場合は「一番おもしろいものを1組だけ選ぶ」ものだと考えると、この方式で間違いはない。どこに出ていようと、今年は「吉住」が選ばれたはずである。

ただ、それ以下にも何となくランキングがついてしまうとすると、残りのメンバーのなかには悔しい人もいるのだろうなとおもう。そのへんがむずかしい。

「THE W」がときに物足りなく感じるわけ

今回のを繰り返しみた感想をひとつ。

「THE W」は初年度から見ているが、最初のころは見ていてかなりきつかった。

「M−1」のステージなどに比べると、その笑いの密度がかなり薄いようにおもえたのだ。

いまはずいぶん変わってきた。少なくとも優勝者は、これを機会にどんと有名になってほしいと、去年の「3時のヒロイン」を見てから強くそうおもう。

だから初回よりもはるかにレベルは上がっているとおもう。

でもまだ、ときどき、あれっと感じる瞬間がある。

今回見ていても、一瞬、ちょっと緩いな、とおもえる気配(「M−1」を見ていたら一瞬たりとも感じない気配)を感じることがあった。

すごく細かい部分である。

漫才などの笑いは、いちおう「ボケ」と「ツッコミ」で形成されていく。

片方が変なことを言って、もう一方がその変な部分を明確にして、笑いにする。

いちおう、それぞれ「やや対立している」立場で展開する。

それが基本型である。

そこには軽い緊張があり、見てるほうもその軽い緊張を楽しみながら見ることになる。

「同調能力」が高いとツッコミが弱くなる

それがときどき、対立が薄くなることがある。

それが緩んでいる感じになる。ダレる、といわれる瞬間である。

予定されてない展開をしたとき、意識せずとも対立ポジションを取ればいいのに、なぜかアドリブ的な事態に対して同調で過ごそうとすると、かなり物足りなさを感じてしまう。

おもったのは、女子会などの基調にある「納得してなくても同調できる能力」についてである。

みるかぎり、多くの女性はふだんから女性同士で同調する能力が高い。

というより男性には「意味のない同調をする能力」がなさすぎる。男性は意味ばかり求めて、和を貴ばない。はっきりいえば、その点において男性はかなり劣っている。

人の社会をうまくまわすポイントはその同調能力がとても大きい。

ただ、「舞台上でのお笑いの喋り」でも、その「同調能力」が出てきてしまうと、とたんに緩んでしまう。意図せずに客をダレさせてしまう。

ただ、これが女性同士の漫才だからそれが多い、とは一概には言い切れないだろう。

「テレビで見られるレベルの高い漫才コンテストの決勝ラウンド」では、なぜか女性漫才にそれが目立つばかりで、ひょっとしたら母体数の差かもしれない。

どこにも中継されていない寄席とか演芸場で見る漫才だと、男女の差はまったく関係なく、緩い漫才はおそろしく緩い。

つまりそれが「受けない漫才」である。そもそもあまり受けなくてもいいとおもってやってそうで怖いのだが、そのへんは対立とか、ツッコミの鋭さとか、そういうことはまったく気にせず、かなり同調が目立つ漫才である。おじさん漫才でも同調の連続だと、ゆったりと眠くなっていく。

簡単に言ってしまうと、最終決戦でボケが弱いパフォーマンスを見ることはないが、ツッコミが弱いのをときどき見かけてしまう。それが「THE W」ということになる。

コラムニスト

1958年生まれ。京都市出身。1984年早稲田大学卒業後より文筆業に入る。落語、ディズニーランド、テレビ番組などのポップカルチャーから社会現象の分析を行う。著書に、1970年代の世相と現代のつながりを解く『1971年の悪霊』(2019年)、日本のクリスマスの詳細な歴史『愛と狂瀾のメリークリスマス』(2017年)、落語や江戸風俗について『落語の国からのぞいてみれば』(2009年)、『落語論』(2009年)、いろんな疑問を徹底的に調べた『ホリイのずんずん調査 誰も調べなかった100の謎』(2013年)、ディズニーランドカルチャーに関して『恋するディズニー、別れるディズニー』(2017年)など。

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